伝記
エーリッヒ・ケストナーは、1899年2月23日、ドレスデンのノイシュタットに生まれたドイツの詩人、作家である。父エミールは鞄作りの手工業者だったが、産業の工業化のあおりで工業労働者となり、母イーダ(旧姓アウグスティーン)は夫の少ない賃金を補うため理容師になった。本当の父は主治医のユダヤ人医師エミール・ツィンマーマンだと言われるが、ケストナー本人は触れておらず、根拠の大半が伝聞のため、結論は出ていない。母とは強い結びつきがあり、のちにライプツィヒやベルリンで暮らした間も、毎日のように母に手紙や葉書を書いた。
教師になろうとして、1913年に教員養成の学校に入ったが、卒業間際に小学校教師の道を捨てた。1917年には兵士として召集された。命令と服従しかない学校や軍隊に反発し、重砲兵の過酷な訓練は反軍国主義の考えを強めた。大学進学を決め、ライプツィヒで学ぶかたわら新聞の編集委員を務め、詩や舞台批評を発表した。インフレに苦しみながら卒業し、ベルリンに出て詩人として認められた。1928年には初の詩集『腰の上の心臓』を出し、同年から秘書のエルフリーデ・メヒニヒが45年にわたって彼を支えた。1927年から1933年までのベルリン時代が最も多作で、『ベルリーナー・ターゲブラット』や『ヴェルトビューネ』などに詩や批評を寄せた。辛辣で皮肉の強いパロディの作品を多く発表する一方、1929年の子供のための小説『エーミールと探偵たち』が好評を博し、画家ヴァルター・トリアーの挿絵とともに児童文学作家として世界に知られた。その後も『点子ちゃんとアントン』や『飛ぶ教室』など子供のための小説を次々と書き、挿絵の多くを手がけたトリアーとの関係は、彼の死まで続いた。1931年の『ファビアン あるモラリストの物語』は、ベルリンの荒廃を描いた成人向けの小説で、日本でも第二次世界大戦世代の作家たちに好意的に読まれた。
自由主義と民主主義を擁護し、ファシズムを非難していたため、ナチスが政権を取ると、詩や小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。それでも「自分はドイツ人である」という誇りから亡命を拒み、偽名で脚本などを書き続け、スイスの出版社から著書を出した。著書が焚書の対象となった際には、焼かれる場面をわざわざ見に行ったという逸話がある。変名で脚本を書いた映画『ほら男爵の冒険』も制作された。
1944年に自宅が火災で全焼した。戦後は1945年半ばから制約なく書けるようになり、1951年から1962年まで西ドイツのペンクラブ会長を務めた。平和主義者として、アデナウアー政権の再軍備に反対し、反核運動を支持した。1960年には『わたしが子どもだったころ』で、第3回国際アンデルセン賞を受けた。長年ルイーゼロッテ・エンダーレと暮らしたが、内縁のままで、結婚はしなかった。『ふたりのロッテ』の双子の姉妹の名は、彼女の名を分けたものである。ドレスデンにいた母とは、戦後の東西ドイツの分断で離ればなれになったが、東ドイツ政府も反ナチを貫いた姿勢を評価して、母を手厚く保護したという。1974年7月29日に死去し、ボーゲンハウゼン墓地に埋葬された。ノーベル文学賞の候補には、1971年以前に6度挙がった。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ・ダスラー (1974年没)
- ヴォルフガング・ヴィントガッセン (1974年没)
- ジーン・アモンズ (1974年没)
- シャーロッテ・ビューラー (1974年没)
- クット・アッテルベリ (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- アルブレヒト3世 (バイエルン公) (1460年没)
- ルドルフ・シュンドラー (1988年没)
- カール・クリスティアン・フリードリヒ・クラウゼ (1832年没)
- ハンス・ホッター (2003年没)
- アドルフ・フォン・バイヤー (1917年没)