HISTORICAL PERSON · 1944年没

ガレアッツォ・チャーノ

イタリアの外交官・政治家。ムッソリーニの娘婿で外務大臣を務めたが、枢軸国としての参戦に反対して次第に政権から遠ざけられた。

生涯
1944年没
死亡地
イタリア共和国(ヴェローナ県 / ヴェローナ)
出生地
イタリア共和国(リヴォルノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴェローナ県)

伝記

ガレアッツォ・チャーノは、1903年3月18日にイタリア王国の軍港リヴォルノで、海軍軍人の長男として生まれた。姓は「チアノ」と表記されることも多い。父コスタンツォは、第一次世界大戦でアドリア海のMAS魚雷艇部隊を指揮し、ブカーリ湾の襲撃などで軍功を挙げた人物である。戦後、その功績により国王から戦地の名を冠したコルテッラッツォ・ブカーリ伯爵を与えられて貴族に列し、下院議長も務めるなど、地元リヴォルノきっての名士だった。その息子のガレアッツォは、華々しい生活を送っていたという。快楽に染まった俗物的な性格ではあったが、家柄にふさわしい教養と知性も身に付けていた。1925年にローマ大学を法学専攻で卒業し、外務省の入省試験を600名中27位で合格して、外交官となった。リオ・デ・ジャネイロ、ブエノスアイレスの大使館勤務を経て、1927年に北京の大使館に赴任した。

1922年のローマ進軍には、退役軍人としてファシスト党の顧問を務めていた父も関与していた。チャーノは父を通じてムッソリーニに接近し、1930年4月24日にムッソリーニの長女エッダと結婚して娘婿となった。結婚は自由恋愛によるもので、政略結婚の性質は持たなかったが、結果的に岳父の威光により上海総領事の地位を与えられ、省内での地位は盤石になった。二人とも奔放で、双方が公然と愛人を持っていたが、夫婦仲は良く、強い絆で結ばれていたとされる。総領事として1932年の第一次上海事変では日中両軍の調停に奔走し、帰国後の1933年に新聞・宣伝省次官、1935年に同省の大臣と、若くして要職を歴任した。イタロ・バルボと並んでムッソリーニの後継者候補とされ、1935年の第二次エチオピア戦争では自ら空軍に志願して爆撃行に参加し、派手なパフォーマンスを好んだ。王太子ウンベルトとも親しく、その友情は王室とファシスト政権の関係の強化に寄与すると見られた。

1936年、33歳で外務大臣に上り詰めたが、外交はムッソリーニの専権事項で、実態は義父の名代として、ドイツやイギリスに赴く特使に近かった。公的な行為で義父に逆らうことはなかった。1939年4月のアルバニア侵攻では準備を任され、実質的にアルバニアの「副王」であったともいう。ドイツ、特にナチ党との接近には猛反対し、ヒトラーを「本物の狂人」と評するなど、強い嫌悪を示した。ヒトラーも彼を信用せず、「胸が悪くなるような若僧」と評した。ただし、のちに出版された日記が主張するほど大戦回避への具体的努力はなく、外務大臣の辞職すら拒んだ点には、自己弁護による歪曲も含まれると指摘される。

1943年7月25日、連合軍のシチリア上陸後、ファシスト大評議会でチャーノは義父に反対票を投じ、ムッソリーニは失脚した。妻とともに亡命を試みたがバチカンに庇護を拒まれ、スペインへの逃亡中にドイツ軍に逮捕されて、ヴェローナの監獄に収監された。この行動は反逆行為とされ、1944年1月8日から9日の裁判で有罪となった。妻エッダは夫の助命を懇願したが空しく終わり、日記を隠し持ってスイスに逃れた。日記は第一級の史料とされる。1944年1月11日早朝、銃殺刑に処された。最期の言葉は「祖国よ永遠なれ!」であったという。

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