HISTORICAL PERSON · 1944年没

アレクシス・カレル

フランスの外科医・生物学者。血管縫合と血管・臓器の移植に関する研究で、1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1944年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(サント=フォワ=レ=リヨン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アレクシス・カレルは、1873年6月28日にフランスのリヨン近郊サント=フォワ=レ=リヨンで、織物業者の長男として生まれた外科医・生物学者である。五歳で父を亡くし、母に育てられた。家はカトリックの中産階級で、親族には聖職者も多く、リヨン有数の絹織物の名家の出もいたが、父の死後は質素に暮らした。イエズス会系のサン=ジョゼフ校に学び、1889年に文学のバカロレアを取ると、リヨン大学で医学を修め、1893年に医学の学位を得た。1896年にインターンに選ばれ、研究の道を志すようになった。1894年にリヨンで刃物で襲われたサディ・カルノー大統領を、外科医たちが救えなかったことも動機になったという。毎晩、リヨンの名高い刺繍職人マリー=アンヌ・ルルディエの工房で裁縫の技術を練習し、縫合の技術を磨いた。

1900年にはジャン=レオ・テストゥの研究室で甲状腺がんの手術に関する論文により博士号を得た。1902年に血管縫合についての最初の論文を発表し、そこで示した三点支持法による縫合は今も使われている。同じ1902年、巡礼団付き添いの医師としてルルドを訪れ、危篤の結核性腹膜炎の少女がルルドの泉の水を浴びてその日のうちに全快する「奇跡」を目の当たりにしたと報告している。1904年に渡米し、1905年にシカゴ大学の生理学部で働き始め、1906年にはニューヨークのロックフェラー医学研究所に準会員として迎えられた。血管縫合および血管と臓器の移植に関する研究により、1912年にノーベル生理学・医学賞を受けた。

同じ1912年の1月17日、ニワトリの胚の心臓の一部を、自ら設計したフラスコの中の培地で培養した。この組織は20年後も成長しており、本人の死後の1946年まで生き続けたとされる。実験の再現に成功した者はなく、「細胞は不死である」という仮説は、1961年にレナード・ヘイフリックがヘイフリック限界を発見するまで定説だった。試料はのちに破棄され、なぜ長く分裂したのかは分かっていない。1914年にはイヌの心臓手術に成功した。第一次世界大戦中には、イギリスの化学者ヘンリー・デーキンとカレル=デーキン法という消毒法を開発し、抗生物質以前の多くの命を救って、レジオンドヌール勲章を授与された。1930年代には、臓器を体外で生かして保存する装置の開発を進め、チャールズ・リンドバーグとの共著で『臓器の培養』(1938年)を書いた。

1939年には『人間 この未知なるもの』を書いてベストセラーとなった。選び抜かれた指導階層の形成を重んじ、優生学の考えを取り入れる内容で、社会的弱者の過保護を認めない主張を含んでいた。66歳でフランスに帰国し、子どもへの栄養不良の影響を調べる研究機関の設立を試みたが、財政援助が得られなかった。政治的には、ジャック・ドリオが結成したフランス人民党に1937年に入党しており、1940年にフランスがドイツに降伏してヴィシー政権が成立すると、ペタン元帥の許可を得て、パリにフランス人間問題研究財団を設立した。しかし占領下の条件の悪さや、対独協力の噂もあって、財団は3年しか続かなかった。1944年11月5日に没した。71歳だった。

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