HISTORICAL PERSON · 1097年没

アルベルト・アッツォ2世・デステ

北イタリアの貴族でエステ家の始祖。息子ヴェルフ4世はバイエルン公となり、その子孫は後にイギリス王家ハノーヴァー朝につながる家系を開いた。

生涯
1097年没
死亡地
イタリア共和国(ヴェローナ県 / レニャーゴ)
出生地
イタリア共和国(モデナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴェローナ県)

伝記

アルベルト・アッツォ2世・デステは、北イタリアのオベルテンギ家に生まれた貴族である。名を縮めてアルベルタッツォとも呼ばれる。生年は996年とも1009年ともいわれる。若いころには父や叔父たちとともにアルドゥイーノ・ディヴレーアの反乱に加わり、皇帝によって所領を奪われたという。一族は1019年に赦免されたが、権力から遠ざかっていた間に、旧領では都市や教会の勢力が成長していた。1026年ごろに父が没し、アルベルト・アッツォはその権利を継いだ。ルニジャーナに持つ領地は、トスカーナとエミリアへの入口となるチーザ峠やブレテッロ峠を押さえる位置にあった。

1034年から1036年ごろ、アルトドルフ伯ヴェルフ2世の娘クニッツァと結婚した。クニグンデとも呼ばれる妻の実家は、シュヴァーベンとバイエルンに広い領地を持っていた。二人の息子がヴェルフ4世である。1037年には叔父ウーゴの遺産も継承し、東リグーリア辺境領やミラノなどに関わる権利を得た。ただし、ジェノヴァやトルトーナの領域に権利を持つことと、その都市自体を統治することとは同じではなかった。1045年にはミラノ伯として姿を見せるが、伯の権威を取り戻すには都市の自治の伸長に対処する必要があった。ミラノ、ピアチェンツァ、アルコレなどで仲裁にあたり、皇帝もこれを通じて権威を示そうとした。

1047年には妻の兄弟がケルンテン公となり、アルベルト・アッツォの所領もあるヴェローナ辺境領を管轄した。この義兄弟は甥ヴェルフを養子とし、死に際してその所領を譲った。クニッツァとの死別後、アルベルト・アッツォは1050年ごろ、メーヌ伯エルベール1世の娘ガルセンダと再婚した。妻はメーヌ伯領の共同相続人の一人であり、この結婚からユーグとフォルコが生まれた。1069年には、ノルマン人の勢力拡大に対抗するメーヌの住民の求めを受け、フランスへ赴いた。翌年にはイタリアへ帰還している。別の女性との間にも娘をもうけたとされ、パヴィーア司教の妹マティルダとの娘アデラシアは、グリエルモ・アデラルディと結婚したという。

1073年以降、アルベルト・アッツォに関わる証書はエステで発給されるようになる。それまで長く滞在したルニジャーナやジェノヴァ、トルトーナ周辺に代わり、パドヴァ地方のこの町が活動の拠点となった。1077年にはカノッサにおり、皇帝の赦免に至る交渉に加わった。皇帝は忠誠の表明を受けてその特権を確認し、息子ユーグとフォルコも将来その恩恵を受けるものとされた。この際の証書に現れる権利は、パドヴァ、フェラーラ、ヴェローナ、パルマ、モデナなど北イタリアの各地に及んでいた。その後、皇帝が再度破門されると、アルベルト・アッツォはマティルデ・ディ・カノッサの側に立った。ユーグも初めは同じ側にいたが、後に陣営を変えた。

1097年8月20日に死去し、長く援助していたヴァンガディッツァ修道院に葬られたとされる。同地には最初の妻も眠っていた。死後には所領をめぐる争いが起こり、1154年、ハインリヒ獅子公がイタリアの所領をフォルコの息子たちへ譲ることで決着した。フォルコの系統はイタリアのエステ家へ、ヴェルフの系統はブラウンシュヴァイク家、さらにハノーヴァー家へと続いた。

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