伝記
クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、1907年11月15日、バイエルン王国のイェティンゲンに生まれたドイツの軍人である。家は13世紀のシュヴァーベンに遡る名門貴族で、1698年に神聖ローマ皇帝から男爵の世襲爵位を授与され、曾祖父の代の1874年にバイエルン王から伯爵の爵位を得た。代々カトリックである。父アルフレートはヴュルテンベルク王国のラウトリンゲンの領主で、軍で少佐まで昇進し、1908年からは国王ヴィルヘルム2世の侍従長として王家の家政を取り仕切った。母カロリーネの祖母の祖父には、プロイセン参謀本部の創設者の一人グナイゼナウ元帥がいる。クラウスは双子二組の四人兄弟の三男で、兄ベルトルトとの関係は終生緊密だった。双子の弟コンラートは生後一日で亡くなっている。
子供のころはシュトゥットガルトの父の公邸に暮らし、1916年に名門のギムナジウムに入学して成績は上位だったが、1918年1月に石炭不足で学校が閉鎖された。同年11月に革命でヴュルテンベルク王家が崩壊すると、父は最後まで国王に仕え、王家の私有地を残すための交渉にもあたった。クラウスはこの年の誕生日を最も悲しい誕生日と評して祝いを拒み、王が何も抵抗せずに去ったことに一番落胆したという。病弱で家庭教師に学ぶことも多く、1923年ごろには兄たちとともに、詩人シュテファン・ゲオルゲの弟子となって深い影響を受けた。芸術を愛してはじめ音楽家を目指したが、才能がないと悟り、建築家を志した。1926年にアビトゥーアに合格し、最終的には軍人の道を選んだ。
1926年4月1日にバンベルクの第17騎兵連隊に入営した。この連隊を選んだのは、伯父が大佐を務めた旧連隊が合流していたためで、縁故を期待したのだろうとされる。親族には「高位の貴族が共和主義の軍隊に仕えるとは何事か」と不評だった。ドレスデンの歩兵学校とハノーファー騎兵学校を経て、騎兵の首席で将校任官試験に合格し、1930年1月1日に少尉となった。1930年11月に男爵令嬢と婚約し、1933年9月に結婚した。気さくで率直で魅力があり、「彼はいつも人の輪の中心だった」と同僚は証言している。ヴァイマル共和国の旗を嘲る同僚には反論するなど、共和政にも忠実だった。
1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されると、演習場でその報を聞いて、熱狂的に喜んだという。ヴェルサイユ条約の打破と軍拡を目指す主張には賛同するところが多かったためである。一方、ナチ党の反ユダヤ主義には同調せず、党の集会でシュトライヒャーがユダヤ人を誹謗すると、席を立って退出した。ブロンベルク罷免事件には激しく反発した。反ナチ派になる決定的な出来事となったのが、1938年11月9日の「水晶の夜」で、彼はドイツに大きな恥辱がもたらされたと感じた。ナチスの野蛮な行為は、貴族でブルジョワでカトリックだった彼の道徳心や正義感に反した。その間も軍では順調に昇進し、1936年9月には英語の成績によりイギリスを訪れ、1938年7月には陸軍大学校を首席で卒業した。1938年8月には第1軽師団の補給係将校となった。
1944年7月20日、国内予備軍参謀長だった参謀大佐のシュタウフェンベルクは、東プロイセンの総統大本営で、ヒトラーを時限爆弾で暗殺する計画を実行した。しかしヒトラーは軽傷にとどまり、「ヴァルキューレ作戦」を発動したクーデター計画も失敗した。7月21日に上官のフロム上級大将の命令で逮捕され、銃殺された。現在のドイツでは、英雄として顕彰されている。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルムート・シュティーフ (1944年没)
- マファルダ・ディ・サヴォイア (1944年没)
- イヴェット・ギルベール (1944年没)
- セシル・シャミナード (1944年没)
- ウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンフェルト (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレア・ポラック (2019年没)
- パウル・フリードリヒ・アウグスト・アシェルソン (1913年没)
- フランツ・クリューガー (1857年没)
- ヤーコプ・グリム (1863年没)
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