伝記
董賢は、前漢の哀帝に寵愛された官人である。字は聖卿といい、紀元前23年に生まれ、紀元前1年に没した。眉目秀麗な容姿で知られ、男色の別称となった「断袖」の故事の由来となった人物でもある。父は董恭、弟は董寛信、妹は董昭儀である。
左馮翊雲陽県の出身で、御史であった董恭の子として生まれ、はじめ太子舎人となった。紀元前7年に哀帝が即位すると、太子に仕える官から哀帝に仕える郎へと移り、二年余り郎として仕えた。紀元前5年、時刻を知らせるために哀帝に拝謁したとき、その美貌を見た哀帝に「これが舎人の董賢か」と声をかけられ、殿上に引き上げられて語り合い、黄門郎に抜擢された。父が雲中侯であると知ると、その日のうちに父は覇陵県令に任じられ、のちに光禄大夫に転じた。寵愛は日ごとに激しくなり、董賢は駙馬都尉・侍中となって、外出には哀帝と同じ車に乗り、宮中では左右にはべった。10か月の間に与えられた恩賞は巨万となり、朝廷を驚かせた。
断袖の故事は次のように伝わる。哀帝は董賢といつも寝起きを共にしていたが、ある日の昼寝のとき、先に目を覚ますと、董賢が自分の衣の大きな袖の上で眠っていた。立てば董賢を起こすことになり、それは忍びないと感じた哀帝は、人に命じて、董賢が横たわっていた側の袖を切り落とさせたという。董賢は柔和な性格で人の意を迎えるのが得意で、休暇をもらっても宮廷にとどまり、医薬のことを調べていたとされる。紀元前4年頃には、董賢が家に帰るのを嫌った哀帝が、董賢の妻を殿中に入れて宿舎に泊まれるようにした。妹は側室の筆頭の昭儀とされ、一家は朝夕に宮廷に出入りした。父は少府・衛尉に進み、弟も執金吾に任じられた。大豪邸が造営され、義陵の近くには盛大な墓もつくられた。
紀元前3年3月、哀帝は董賢を列侯に封じたいと考え、東平王劉雲が呪詛を行ったという告発を董賢の手柄にさせて、高安侯とし食邑千戸を与えた。この事件に疑いをもった廷尉の梁相らは罷免された。紀元前2年、哀帝が董賢にさらに二千戸を加える詔を出すと、丞相の王嘉は詔を返上し、董賢を佞幸の臣だと諫めた。哀帝は怒って王嘉を詰問し、王嘉は獄に繋がれ、絶食して血を吐いて死んだ。大司馬の丁明も罷免され、代わって董賢が大司馬・衛将軍に任じられた。このとき22歳で、尚書のことを統べ、百官は董賢を通じて哀帝に奏上した。董氏の親族はみな侍中などに取り立てられ、その寵愛は哀帝の実母の丁氏や実祖母の傅氏の一族を上回った。紀元前1年正月に来朝した大昆弥が若い董賢を不思議に思って尋ねると、哀帝は大賢人だからこの地位にいるのだと答え、大昆弥は拝礼して祝賀したという。丞相の孔光は、董賢が訪ねてくると恭しく慎み深く迎え、対等の礼はとらなかった。この頃、限田法の実施が迫ると、董賢は傅氏・丁氏の一族とともに反対し、実施は延期されて、結局行われなかった。酒宴の席で酔った哀帝が、堯が舜に譲ったように帝位を譲りたいと董賢に語りかけ、王閎に諫められて不機嫌になったという逸話もある。
紀元前1年6月27日に哀帝が死去すると、董賢は皇帝の印綬を託されていたが、王閎が太皇太后の王政君の許しを得てこれを求め、董賢は拒まずに渡した。王政君は葬儀の補佐に王莽を命じ、王莽は董賢が哀帝の病中に自ら薬を進めなかったと弾劾させた。董賢は宮門で冠を脱ぎ裸足で謝罪したが、大司馬の印綬を返して屋敷に帰れとの詔を受け、その日のうちに妻とともに自害した。家の者は恐れ、夜のうちに埋葬したが、王莽は死を偽ったのではないかと疑い、棺を暴いて遺体を獄で検めさせたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Cleophis (紀元前1)
- 趙飛燕 (紀元前1年没)
- アリアラテス8世 (紀元前1)
- マルクス・ティティウス (紀元前 1年(推定))
- 哀帝 (漢) (紀元前1年没)
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