伝記
趙飛燕は、前漢の成帝の皇后である。元の名を宜主といい、妹の趙合徳とともに前漢を破滅に導いた女性として知られ、傾国の美女ともいわれる。『百美新詠図伝』では歴朝で最も名高い美人百人に選ばれ、中国四大美人の一人に数えられることもある。
生年は不明だが紀元前32年頃と推定される。出生は卑賤であった。両親は王族に仕える世襲の使用人で、生まれたときは貧しさから捨てられたが、3日たっても生きていたので拾われたと伝えられる。父の死後、姉妹は裕福な家の家令に引き取られ、その養父趙臨の姓を名乗った。のちに長安にたどり着き、飛燕と号して歌舞の腕を磨き、元帝の娘である陽阿公主の家の歌妓となった。細身で舞が軽やかで、飛ぶ燕のようだったことから飛燕と呼ばれたという。紀元前19年頃、成帝が陽阿公主の家を訪れて姉妹の舞を見て心を奪われ、二人は後宮に迎えられた。妹は昭儀として入宮し、姉妹は寵愛を受けて、許皇后や班婕妤から成帝の心を遠ざけた。紀元前18年には、新たに寵愛された姉妹から呪詛の罪で訴えられ、許皇后は廃され、班婕妤は弁明に成功して王太后の話し相手として宮中に残った。姉妹は後宮の主となった。
成帝は趙飛燕を皇后に立てようとしたが、王太后の強い反対にあった。生まれが庶民であり、舞を仕事としていたためである。それでも鴻嘉3年(前18年)に許皇后が廃され、永始元年(前16年)に立后が実現した。成帝は養父の趙臨を成陽侯に封じて、家柄を整えたともいわれる。皇后となってからは成帝の関心が妹に移り、姉妹ははじめ嫉妬し合ったが、のちに和解して宮廷を共に握ろうとしたという。子を望んだ趙飛燕が、子だくさんで知られる男たちと密通を重ねたとの噂もあった。成帝には子がなく、皇后に子ができなかったため、後継が問題となった。紀元前9年、成帝は弟の中山王や甥の定陶王劉欣を後継に考えたが、劉欣の祖母の傅氏が趙飛燕、趙合徳、王根に贈り物をして取り入っており、趙飛燕らも劉欣をほめた。成帝は劉欣のほうが優れていると判断し、紀元前8年に皇太子とした。
紀元前7年に成帝が急死すると、妃たちが産んだ子とその母が嫉妬から殺されたとの噂がすぐに広まり、死因に疑いの声が上がり、妹の趙合徳は自殺に追い込まれた。紀元前6年の調査報告によれば、成帝には紀元前12年に曹氏が、紀元前11年に許氏が産んだ子がいたが、二人とも趙合徳の命令で殺され、曹氏は子の死後に自殺を強いられたという。報告は、姉妹が堕胎薬を使わせ、殺害や毒殺を行って、他の妃に世継ぎを産ませなかったと訴えている。成帝の死因は脳卒中とされるが、趙合徳が与えた媚薬の過量だった可能性も報じられた。こうして妹は子を殺めたとされ、「燕が皇孫をついばむ」と後世に呼ばれた。しかし趙飛燕自身が関与した記録はなく、哀帝の時代に大臣たちが批判したのも趙昭儀であって飛燕には触れておらず、妹との連帯責任以外は問いにくいと評されることが多い。趙飛燕は自らに子がなかったため哀帝の即位を支持し、哀帝が即位すると皇太后となった。
しかし紀元前1年に哀帝が死去して平帝が即位すると、支持基盤を失った趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪された。皇太后から孝成皇后に降格され、さらに庶人に落とされて、まもなく自殺した。豊満な楊貴妃に対して痩身の趙飛燕を表す「環肥燕痩」の語は、優れた容姿の型を示す表現として今に伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- マニウス・アキリウス・グラブリオ (紀元前67年の執政官) (紀元前 1年(推定))
- アリアラテス8世 (紀元前1)
- Cleophis (紀元前1)
- 哀帝 (漢) (紀元前1年没)
- マルクス・ティティウス (紀元前 1年(推定))
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