伝記
ガイウス・トレバティウス・テスタは、紀元前84年に生まれ、紀元前4年ごろに没したとされる古代ローマの法学者である。一族も本人もエレア(ウェリア)の出身で、ルカニアの生まれとされる。キケロの友人であり、カエサルやアウグストゥスにも近く仕え、当時もっとも名高い法律家の一人であった。
キケロより二十歳ほど年下で、キケロにとっては親しい友であり被保護者でもあった。キケロは彼にあてて『トピカ』を著した。トピカが書かれたのは、テスタがアリストテレスの写本を見つけたものの、文体の難しさか主題の難しさのために理解できず、キケロに助けを求めたことがきっかけだったという。紀元前54年、キケロはテスタをカエサルに推薦し、誠実で控えめな、市民法に深い知識をもつ法律家だと紹介した。テスタはカエサルのもとでガリアに赴き、法律顧問となり、文書をつかさどる役所の長にも就いたとされる。カエサルが提示した軍団の幕僚の職は断った。軍事にはあまり関心を示さず、カエサルは兵役を免除したようで、ブリタニアへの遠征に同行しなかったために仲間から冷やかされたという。
カエサルの厚い信頼を得て、内戦でもその側に立ち続け、カエサルとキケロの仲立ちを務めることもあった。スエトニウスが伝える逸話では、ウェヌス・ゲネトリクス神殿の近くで、栄誉を贈りに来た元老院の使節団をカエサルが座ったまま迎えた。同意できなかったテスタが立つように促す目配せをすると、カエサルはそれを察して非難の視線を返したという。カエサルの死後はオクタウィアヌス、のちのアウグストゥスの側に移り、没するまで高く評価された。カエサルからの信頼はたいへん厚く、その死によって計画が断たれなければ、カエサルの法典編纂の事業を率いていたかもしれないともいわれる。ただしその協力は、常に個人としての独立を保ち、養父カエサルとの場合のように恒久的なものではなかった。紀元前30年代の終わりごろからアウグストゥスとの接近が見られ、これは弟子のマルクス・アンティスティウス・ラベオが、アウグストゥスの強硬な反対者として距離を置いた時期と重なる。皇帝が彼に公的な解答権を与えた可能性も指摘されている。
法学では、コルネリウス・マクシムスに学んだ。元老院から個々の法学者へ法的権威が移る過程で重要な役割を果たし、聖法にも通じていた。アウグストゥスの命で設けられた研究の集まりに加わり、遺言の外にある遺言補足書を有効な死後の処分として認める議論に関わったことが、ユスティニアヌスの『法学提要』に記されている。『宗教について』と『市民法について』などを著したが、断片さえ残らない。それでも後世の法学者にたびたび引用され、のちの法学者ラベオの師としても名高かった。
人柄は陽気で、キケロは「君らしい冗談」を送ると書いている。ホラティウスは『風刺詩』に博識な助言者として彼を登場させた。酒を好み、水泳を趣味にしていたようである。エピクロス派を公然と信奉し、政治に深く関わることは望まず、官職の道を歩むことにも一定の距離を置いた。政治から身を引いたのは、個人の生活を公の生活から遠ざけるエピクロス派の教えによるのかもしれない。ただしそれはローマ風のエピクロス派で、カエサルのもとで重要な役目を務めることは妨げなかった。それでも、カエサルやキケロ、アウグストゥスといった当代の人物と親しく交わった。
同じ年に亡くなった人物
- Antipater (紀元前3)
同じ地域に関係する人物
- マルケルス2世 (ローマ教皇) (1555年没)
- Princess Maria Antonia of Parma (1841年没)
- ヨハネス19世 (ローマ教皇) (1032年没)
- ディオニュシウス (ローマ教皇) (268年没)
- エンリコ・ガッツォーニ (1949年没)