伝記
マルケルス2世は、対抗宗教改革期のローマ教皇である。本名はマルチェッロ・チェルヴィーニといい、1501年5月6日に、アンコーナ周辺の小さな町モンテファーノで生まれた。父リッカルドは使徒座の財務官としてアンコーナで働いており、一族はもとトスカーナ地方のモンテプルチャーノの出であった。姉妹の一人チンツィアはヴィンチェンツォ・ベラルミーノに嫁ぎ、のちの神学者ロベルト・ベラルミーノを産んでおり、この人物はマルチェッロの甥にあたる。
若いマルチェッロはシエナなどで学び、ラテン語、ギリシア語、イタリア語の文章に通じたほか、法学、哲学、数学も修めたとされる。父は占星術に関心があり、息子の星回りに高い聖職の栄誉が現れていると知って、聖職の道に進ませたと伝えられる。ローマでは教皇クレメンス7世の時代に使徒座の書記官となり、暦を天体の運行に合わせて直すための天文学的な研究に携わる予定であった。1527年のローマ劫略のときにはいったん故郷へ逃れたが、やがてローマに戻り、有力な枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの家に迎えられた。1535年に司祭に叙階されている。
1534年にファルネーゼがパウルス3世として教皇位に就くと、チェルヴィーニはその秘書となり、教皇の親族である若い枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの相談役も務めた。教皇がニースで皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の休戦を仲介した際にはその一行に加わり、のちにスペイン、フランス、ネーデルラントへ赴いて休戦条件の実施を助けている。1539年には枢機卿に任じられ、1540年にレッジョ・エミリア司教、1544年にはグッビオ司教となった。ローマの自邸はルネサンスの文化人が集まる場となり、主だった人文主義者と書簡を交わしていたという。
1545年に開かれたトリエント公会議では、レジナルド・ポール、ジャン・マリア・デル・モンテ(のちのユリウス3世)とともに三人の議長の一人となった。教会の正統と規律を強く擁護し、教皇権の主張にも熱心であったため、皇帝カール5世の不興を買い、パウルス3世の没後に議長の座を外されたとされる。1546年には検邪聖省の一員に任命された。1548年、あるいは1550年には、バチカン図書館の管理を任され、この職に就いた最初の枢機卿となった。その在任中に図書館の写本は500点以上増え、その中にはギリシア語写本143点が含まれていたと、本人の手控えから確認できるという。
1555年4月9日、ユリウス3世の後継者として教皇に選ばれた。対抗宗教改革の進展が期待されたが、コンクラーヴェの疲れですでに体調を崩しており、着座式でさらに悪化した。選出から三週間ほどで急逝し、21日目とも22日目ともいわれ、死因は脳卒中とされる。在位はごく短かったが、教皇名を改めずに本名のまま名乗った最後の教皇として知られる。また、その死後423年を経て、ヨハネ・パウロ1世が現れるまで、4世より小さい序数の教皇名を選んだ教皇はいなかった。作曲家パレストリーナの『教皇マルチェルスのミサ曲』は、伝統的にこの教皇のために作られたものとされてきた。
同じ年に亡くなった人物
- バルトロメオ・ヴェネト (1555年)
- ヒュー・ラティマー (1555年没)
- フアナ (カスティーリャ女王) (1555年没)
- エンリケ2世 (ナバラ王) (1555年没)
- アグネス・フォン・ヘッセン (1555年没)
同じ地域に関係する人物
- ベルナルディーノ・ザッポーニ (2000年没)
- ダミアーノ・ダミアーニ (2013年没)
- スパルタコ・バンディネッリ (1997年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・ブガッティ (1869年没)
- アエミリウス・マケル (紀元前15)