伝記
ピアーズ・ギャヴィストンは、1284年ごろ、当時イングランド王の所領だったフランス南西部ガスコーニュに生まれた廷臣である。父アルノー・ド・ガバストンはこの地の騎士で、妻の相続した土地を親族や隣人から守るのに苦労し、財政の面でイングランド王エドワード1世に頼って長く仕えた人物だった。ピアーズ本人の確かな記録は1297年のガスコーニュでの従軍が最初で、1300年に父や兄とともにイングランドへ渡り、同年代のエドワード皇太子(のちのエドワード2世)の家に入った。国王は彼の振る舞いと武芸に感心し、息子の手本にしようとしたらしい。1304年には皇太子の願いで、父を亡くしたロジャー・モーティマーの後見を任された。
1306年にはナイトに叙せられたが、同じ年にほかの21人の騎士とともにスコットランド遠征を抜けて馬上槍試合に出かけ、逮捕命令を受けた。エドワード1世の王妃マーガレットの取りなしで、翌1307年1月に全員が赦されている。しかし皇太子の彼への傾倒は度を越しており、エドワード1世は1307年2月、彼に国外退去を命じた。国王は崩御に際しても追放を解かないよう息子に言い残したが、即位したエドワード2世は遺言を無視し、ただちに追放を解いた。
エドワード2世は彼に王族専用のコーンウォール伯位を与え、王の恩賞を配分する権限も任せた。さらに自分の姪にあたるマーガレット・ド・クレアとの結婚を勧め、のちに一人娘のエミーが生まれた。1308年1月、王がフランス王の娘イザベラとの結婚のため国を離れた間は摂政を務め、同年2月の戴冠式では王冠を捧げ持つ役を与えられた。諸侯は以前から王の寵愛を不快に思っていたが、この厚遇で反発が一気に強まった。彼は敵意を示す諸侯をわざと辱め、王妃の叔父たちにも無礼を働いたため、叔父たちは怒って席を立ちフランスへ帰ったという。
1308年の議会には諸侯が武装して集まり、王を威圧して追放を迫った。王はやむなく彼をアイルランド総督に任じてロンドンから遠ざけ、見送りのためブリストルまで同行した。翌1309年の議会では、諸侯の要求を受け入れる代わりに彼を呼び戻す許可を得た。二人はランカスター伯トマスやウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムら敵対する貴族に、あだ名をつけて馬鹿にしていたと伝えられる。1310年の議会でも諸侯の圧力により改革勅令起草委員会が置かれ、1311年秋には彼の永久追放を含む改革勅令が出された。彼はフランドルへ逃れたのち、ひそかに帰国してウィンザーで王と合流し、追放の取り消しを受けた。
激怒した諸侯はウィンザーへ進軍し、王と彼はスカーバラ城に三週間立てこもったすえ降伏した。王の懇願により命は保証されたが、ロンドンで裁判にかけるため身柄は諸侯に引き渡された。ペンブルック伯が護送する道中、助命に納得しないウォリック伯が彼を拉致して自分の城に連れ去り、1312年6月19日、ランカスター伯らの立ち会いのもとで私刑により斬首した。王はこの件に憤慨し、拉致に関わった諸侯とペンブルック伯らの対立も深まって、諸侯は分裂した。中世の年代記は二人を恋人どうしだったと記し、のちにクリストファー・マーロウの戯曲『エドワード二世』にも描かれた。現代の歴史家にはこれを支持する者もいれば疑う者もおり、ピエール・シャプレは二人を養子縁組による兄弟のような間柄とみた。諸侯の不満の中心は性的な関係よりも、彼が王の恩賞を独占していたことだったという指摘もある。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン2世 (ブラバント公) (1312年没)
- トクタ (1312年没)
- エウフェミア・フォン・リューゲン (1312年)
- フェルナンド4世 (カスティーリャ王) (1312年没)
- オットー3世 (バイエルン公) (1312年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・プラム (2022年没)
- アンナ・ラッセル (植物学者) (1876年没)
- リチャード・ウッドヴィル (初代リヴァーズ伯爵) (1469年没)
- ジェフリー・ハウ (2015年没)
- Jack Fairman (2002年没)