伝記
大ドルススは、ユリウス=クラウディウス朝の家系に属する、古代ローマの元首政期の軍人であり政治家である。全名をネロ・クラウディウス・ドルススといい、紀元前38年に生まれ、紀元前9年に没した。父はティベリウス・クラウディウス・ネロ、母はリウィア・ドルシッラで、リウィアの連れ子であった後の皇帝ティベリウスは兄にあたる。妻は小アントニアで、二人の子が夭折したのち、後にティベリウスの右腕となるゲルマニクス、リウィッラ、そして後にローマ皇帝となるクラウディウスをもうけた。
リウィアは、ドルススが生まれるとすぐに先夫と離婚し、紀元前38年1月17日にアウグストゥスと結婚した。このため、ドルススの本当の父はアウグストゥスではないかという噂が立った。しかし、リウィアが身ごもったころにアウグストゥスと会う機会がなかったことや、先夫クラウディウス・ネロが自分の子と認知していたことから、後の歴史家たちはこの説を否定している。名は最初「デキムス・クラウディウス・ドルスス」であったが、のちに「ネロ・クラウディウス・ドルスス」に変わったとスエトニウスは伝える。いつ、なぜ変わったのかは分かっていない。紀元前33年に実父が没するまで、ドルススは兄ティベリウスとともに実父の家で育てられ、兄弟は終生仲が良かった。ティベリウスが長男に弟の名をつけ、ドルススが次男にティベリウスの名をつけたことも、その絆を示すとされる。
紀元前16年、兄がプラエトルとしてイタリアを離れると、アウグストゥスはドルススをクワエストルの官職に就けた。彼はアルプスのラエティア族の討伐を命じられて撃退したが、決定的な打撃を与えられず、兄に援軍を求め、共同して打ち破った。紀元前13年には、ガリアでの暴動の鎮圧と統治のために派遣されたが、その間にゲルマン人がガリアに侵入して居住するローマ人を脅かした。ドルススは軍団を率いてライン川を越え、ゲルマニアの奥地へ侵攻し、海路で北海を渡って、一年のうちにフリース人の領土を制圧した。ゲルマン人の諸部族への遠征は毎年続き、紀元前11年にはプラエトルに選ばれたが、ローマに戻らず、春になるとふたたびゲルマニアを攻めた。帰路にはゲルマン人の攻撃を受けたが、敵を総崩れにさせ、軍団から絶対的な支持を受けた。紀元前10年にはシャッティ族とシカンブリ族の攻撃を退けた。
その後、ドルススは義父アウグストゥスと兄に会うためリヨンへ、続いてローマへ赴いた。紀元前9年にはコンスルに当選したが、官職に就かないまま戦線に赴いた。シャッティ族を破り、マルコマンニ族に対する戦役を進めた。ローマ人の将軍として初めてヴェーザー川とエルベ川に達したとも伝えられる。しかし、その帰路にライン川を渡ってローマ領に戻る途中、落馬し、それが元で命を落とした。負傷したドルススのもとにはティベリウスが駆けつけ、スエトニウスによれば、ドルススが息を引き取るまでローマには帰らなかったという。遺体はローマに運ばれて火葬にされ、皇帝廟に祀られた。
ドルススは軍事的に有能な指揮官で、次男らしい快活な性格を愛したアウグストゥスは、彼に限りない栄誉を与えた。妻のアントニアはその死後も再婚せず、終生独身を貫いた。彼は軍団内で英雄として崇められ、元老院はゲルマン族を征服したという意味の「ゲルマニクス」の称号を贈り、これは息子の個人名にも受け継がれた。彼の死は、ローマ帝国の北方への拡大の勢いをそぐことになり、後のトイトブルクの森の戦いの大敗を予感させるものだったとも言われる。
同じ年に亡くなった人物
- ティトゥス・スタティルス・タウルス (紀元前26年の執政官) (紀元前 9年)
- アイネシデモス (紀元前 9年)
同じ地域に関係する人物
- クリスティアン・ブレーム (1864年没)
- チェルディッチ (ウェセックス王) (534年没)
- フリードリッヒ・オットー・ショット (1935年没)
- エルンスト1世 (ザクセン=アルテンブルク公) (1908年没)
- ヨハン・ハインリヒ・ブットシュテット (1727年没)