伝記
ティトゥス・スタティルス・タウルスは、共和政ローマ末期からアウグストゥスの時代に活動した政治家、軍人である。ルカニア出身の平民で、先祖に高位の官職を務めた者をもたない、いわゆる新人であった。はじめはマルクス・アントニウスを支持し、その後援によって紀元前三十七年に補充執政官に選ばれた。続いてアントニウスの命令で艦隊を率い、セクストゥス・ポンペイウスと戦っていたオクタウィアヌスの援軍に赴いた。ポンペイウスがシキリアから追われると海を渡ってアフリカ属州へ進み、大きな困難もなく同地を平定した。この功績によって紀元前三十四年に凱旋式を行う栄誉を得た。
ローマへ戻ると、市内で初めての恒久的な円形競技場の建設に取りかかった。一方、紀元前三十四年にはオクタウィアヌスのダルマチア遠征に随伴し、オクタウィアヌスが帰国したあとも現地に残って駐屯軍の指揮を続けた。やがてオクタウィアヌスと、アントニウスおよびクレオパトラとの戦争が始まると、かつて自分を執政官に引き立てたアントニウスの側ではなく、オクタウィアヌスの側に立った。アクティウムの戦いでは陸上部隊を指揮した。アントニウスとクレオパトラが海戦で敗れると、相手の陸軍は交戦せずにタウルスへ降伏し、オクタウィアヌスの勝利を早める結果となった。
アントニウスの死後、紀元前二十九年にはヒスパニアへ送られ、カンタブリ族、ウァカエイ族、アストゥレス族を破った。同じ年、建設していたスタティルス・タウルス円形競技場も完成した。開場に際しては数多くの剣闘士競技が催され、その人気は高く、民会は毎年プラエトルを指名する権利をタウルスに与えた。軍事指揮官としての活動と並び、ローマに残したこの競技場の建設も、その経歴の大きな事業であった。ローマに滞在している間は、ゲルマン人の奴隷を私的な護衛として用いていたともいわれる。
紀元前二十六年には正規の執政官に就任した。同僚執政官は、前年にアウグストゥスの称号を得たオクタウィアヌスである。この登用は、アウグストゥスが権力を固める以前に試みた栄誉の分配の一例ともみなされる。補充執政官を含めると、これが二度目の執政官職であった。紀元前七年にティベリウスが二度目の執政官となるまで、タウルスを最後に、執政官を複数回務める者は現れなかった。さらに紀元前十六年、アウグストゥスがイタリアを離れてガリアへ向かった際には、ローマに残され、首都長官を任された。新しい支配者の遠征中に首都を預かる立場にも就いたのである。
家族については三人の息子と、おそらく二人の娘がいたとされるが、全員が同じ母から生まれたかは不明である。長男も次男も父と同じティトゥス・スタティルス・タウルスを名乗った。長男は造幣官となったものの、執政官となる年齢に達する前に没した。次男は紀元十一年、三男のシセンナ・スタティルス・タウルスは紀元十六年に執政官を務めた。娘の一人は、紀元前一年の執政官で鳥占官でもあったルキウス・カルプルニウス・ピソと結婚した。もう一人の娘とされるスタティリアは、クラウディウスの治世に九十九歳で死んだと伝わる。ただし、この女性は娘ではなく妹であった可能性もあり、親族関係は確定していない。