伝記
シュテファン1世は、ヴィッテルスバッハ家の下バイエルン公である。1271年3月14日、ランツフートで生まれた。父は下バイエルン公ハインリヒ13世、母はハンガリー王ベーラ4世の娘エリーザベトで、三人兄弟の末の子であった。シュテファンという名は、ハンガリーのアールパード家に多い名で、それまでヴィッテルスバッハ家では使われていなかった。母がこの名を持ち込んだのであり、母の兄弟であるハンガリー王イシュトヴァーン5世にちなむのではないかともいわれる。
1290年に父が没すると、兄のオットー3世とルートヴィヒ3世が公位を共同で継いだ。シュテファンは聖職者の道に進むはずで、この年にパッサウ大聖堂の参事会員となり、ザルツブルク大司教にも選ばれた。しかし教皇ニコラウス4世はこの選出を認めず、別の人物を大司教に任じた。ヴィッテルスバッハ家の力を抑えるためであったともいわれる。兄のオットーは弟を守るため武器を取り、事態が収まったのは1291年、レーゲンスブルク司教ハインリヒの仲介によってであった。その後、1294年には兄たちとともに統治に加わったとされる。1290年から共同統治者であったとする記述もある。次兄のルートヴィヒ3世は1296年に没した。
1299年、シュテファンはヤヴォル=シフィドニツァ公ボルコ1世の娘ユディタと結婚した。夫妻には8人の子が生まれた。1301年生まれのアグネスはシトー会のゼーリゲンタール修道院に入った。1302年生まれのベアトリクスはゲルツ伯ハインリヒ3世と結婚した。ほかにフリードリヒ、ユーディト、ルートヴィヒは幼くして亡くなったと考えられている。のちに公位を継ぐことになるハインリヒ14世は1305年に生まれた。1306年生まれのエリーザベトは、オーストリア公オットーと結婚した。オットー4世は1307年に生まれ、のちに公位を継いだ。
この間の1305年から1308年まで、長兄のオットー3世はハンガリー王となって国を離れていた。その間、シュテファンは下バイエルンをただ一人で治める公であった。兄が戻ると、オーストリア公フリードリヒ1世(美王)との戦争が起こった。ハプスブルク家と敵対していたシュテファンは、この戦いのさなかの1310年12月10日に亡くなった。戦争が終わる前の死であった。遺体はゼーリゲンタール修道院に葬られた。公位は息子のハインリヒ14世とオットー4世が、叔父のオットー3世とともに継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- シュロモー・イブン・アデレト (1310年没)
- Amalric, Lord of Tyre (1310年)
- Shams al-Din al-Samarqandi (1310年没)
- コスタンディン3世 (1310年)
- Abdallah Ibn-Ahmad Nasafi (1310年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム・イン・バイエルン (1837年没)
- テオドール・ロイス (1923年没)
- カール・アウグスト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス (1982年没)
- ヴァルター・マイスナー (1974年没)
- アルトゥル・ザイス=インクヴァルト (1946年没)