伝記
アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは1892年、オーストリア=ハンガリー帝国領メーレン地方のシュタンネルンに生まれた。父は中学校教師で、幼少時の名はアルトゥル・ツァイティッヒだった。1907年に一家でウィーンへ移り、法律を学んだ。第一次世界大戦が始まるとオーストリア陸軍に入り、東部戦線とイタリア方面で従軍したが、1917年に重傷を負い、終戦時には復員していた。ウィーン大学などで法律を学び直して博士号を得た後、弁護士となった。1927年の山岳事故で片膝を負傷し、歩行に不自由が残った。
1931年にオーストリア・ナチ党へ入党し、ドイツとの併合を主張した。党内では穏健派の指導者とされ、暴力的な非合法活動には反対していた。1936年の独墺協定では、オーストリア・ナチ党の穏健派を政府に受け入れる秘密合意が結ばれ、1937年には政府参事官に任命された。1938年2月、ヒトラーとの会談を経て内相就任が決まり、シュシュニック首相は2月16日に彼を内務大臣に任命した。3月、ドイツ側の圧力でシュシュニックが辞任すると、ミクラス大統領はザイス=インクヴァルトを首相に任命した。首相となったザイス=インクヴァルトは直ちにドイツ軍の進駐を要請し、翌日から軍がオーストリアに入った。3月13日に併合法が発布され、オーストリアはドイツの一州となった。4月23日に州名はオストマルクとなり、ザイス=インクヴァルトは1939年4月末まで国家代理官を務めた。
併合後、ユダヤ人の財産没収を始め、1938年10月にはウィーンの反ユダヤ暴動を党幹部と組織した。暴動では二千人のユダヤ人が逮捕され、国外退去を促すことが目的とされた。1939年5月にはヒトラー内閣の無任所相となり、同年10月にポーランド総督府の副総督に就任した。総督ハンス・フランクのもとで、ポーランドのユダヤ人をゲットーへ移送する政策に関与した。
1940年5月、オランダの国家弁務官に任命され、民政の全権を握った。5月の就任演説ではオランダ法を維持すると述べたが、非ユダヤ系住民とユダヤ系住民を分け、ユダヤ人をオランダ国民として扱わないと明言した。ユダヤ人は職場から追われ、企業はアーリア化され、絶滅収容所への移送が進んだ。占領時にオランダで暮らしていたユダヤ人約十四万人のうち、十一万人以上が国外へ移送され、戦後まで生き延びたのは約六千人だった。ザイス=インクヴァルトはヘルツォーゲンブッシュ強制収容所を設け、1943年に親衛隊へ引き渡した。非ユダヤ系住民にもドイツへの強制労働が課され、処刑や飢餓による犠牲が生じた。同年、教会の反対を受けてユダヤ人配偶者への強制断種計画を中止させた。
1945年4月、ヒトラーの政治的遺書で外相に指定されたが、実際にその職務を担うことはなかった。デーニッツとの会談を経て、ドイツ軍の焦土作戦を抑えるため5月8日までオランダ国家弁務官にとどまることを認められた。敗戦後に潜水艦で逃亡を図ったところをカナダ軍に捕らえられた。ニュルンベルク裁判では侵略戦争の共同謀議、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪の全てで起訴され、死刑判決を受けた。1946年10月16日に刑死した。
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