HISTORICAL PERSON · 1307年没

ドゥア

チャガタイ・ハン国の実質的建国者。当初カイドゥの傀儡だったが、その死後に自ら実権を握り中央アジアからアフガニスタンに至る広大な支配圏を築いた。

生涯
1307年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ドゥアは、モンゴル帝国のチャガタイ・ウルスの当主で、チャガタイ・ハン国の実質的な建国者とされる人物である。バラクの子で、次男にあたる。1270年に父バラクが、オゴデイ家のカイドゥと対立するなかで、カイドゥによる毒殺ともいわれる謎の急死を遂げると、父の仇敵であるカイドゥと対立した。カイドゥの側についた先代のアルグの遺児チュベイらとも、10年近く激しい抗争を繰り広げた。やがてカイドゥと組み、1275年には、ウイグリスタンで、チャガタイ家のアジキとクビライの子アヤチが率いるクビライ側の軍を破った。翌年にはカイドゥとともにベシュバリクへ遠征して元軍を破り、町を奪った。この攻撃でウイグル人はジュンガリアを失い、ベシュバリクのウイグル人は、トルファン盆地のカラ・ホージャへ移された。ドゥアは弟のブズマとともに12万の兵でカラ・ホージャを半年包囲し、守るウイグル王(イディクト)コチカルに降伏を求めた。城を落とせなかったが、コチカルは娘を嫁がせ、おそらく賠償も支払ってようやく包囲を解かせた。同じ1276年にコチカルはカイドゥ軍との戦いで没した。1278年には元の領内への襲撃を率いたと伝えられる。

情勢が変わってドゥアがカイドゥに服属する一方、カイドゥと対立したチュベイらはクビライの大元ウルスに逃れた。そのため1282年に、カイドゥによって空席だったチャガタイ家の当主の座に据えられた。この任命は、バラクの子らとカイドゥの和平を図り、チャガタイ家の忠誠を保つ狙いがあったとされる。ただ、実際のドゥアはカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに築いた「カイドゥ・ウルス」を構成する諸王の一人にすぎなかった。

1295年、ドゥアはカイドゥの子サルバンとともにイルハン朝のホラーサーンとマーザンダラーンに侵入した。西の方でイルハン朝の将軍たちが継承争いに追われていたときだった。マーザンダラーンに8か月とどまり、去るときには多くの町を略奪した。翌1296年、イルハン朝のガザン・ハンが派遣した将軍ノウルーズが攻めてくると、ドゥアとサルバンは略奪した家畜を連れて撤退した。1297年には、元の司令官たちの抵抗が強まり、カイドゥとドゥアは何度か退いた。1298年の冬、ドゥアは元の守備隊を襲って、この敗北の報復をした。1298年か1299年には、子のクトルク・ホージャを、ホラーサーンの大部分を支配するカラウナスの長に任じた。

1300年、元軍がカイドゥに大攻勢をかけた。カイドゥに援軍を求められたドゥアは、軍が疲れているとして断ったが、結局は救援に駆けつけ、1301年の戦い(テケリクの戦い)で、カシャン率いる元軍に撃退され、カイドゥとともに重傷を負った。間もなくカイドゥが没すると、ドゥアは、カイドゥ王国の長老として発言力を増した。カイドゥが生前に後継者に指名したオロスを遠ざけ、長男チャパルを推して即位させた。1304年にはチャパルとともに、クビライの孫テムル・カアンに使者を送って臣従を誓い、モンゴル帝国は再統合された。その後、チャパルとオロスが争うと、ドゥアはアルタイ山脈を越えてジュンガリアに進出した元軍と連携し、オゴデイ家の各勢力を各個撃破した。1306年にはチャパルを追放し、アルタイ山脈以西のカイドゥ・ウルスの旧勢力圏を統一して、中央アジアに広大な支配圏を築いた。ヒンドゥークシュ方面からアフガニスタンまで勢力下に置いてチャガタイ・ハン国の最盛期を築いたが、まもなく病を得て1307年に没した。在位はチャガタイ家の歴代で最も長かった。

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