HISTORICAL PERSON · 1303年没

ボニファティウス8世 (ローマ教皇)

ローマ教皇。ケレスティヌス5世の退位後に選出され、コロンナ家やフランス王フィリップ4世と争い、アナーニ事件の直後に没した。1300年を聖年と定めて祭典を行い、ローマ・ラ・サピエンツァ大学を設立した。

生涯
1303年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(アナーニ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ボニファティウス8世は、一二三五年頃に生まれ、一三〇三年十月十一日に没した、十三世紀から十四世紀にかけてのローマ教皇である。在位は一二九四年から一三〇三年に及ぶ。フランス国王フィリップ4世やコロンナ家と争い、最晩年のアナーニ事件の直後に憤死したとされる一方、学術や文化の保護者としても知られる。ローマ市の南東にあるアナーニの名門の出身で、本名はベネデット・カエターニという。教会法などを学び、パリやローマで聖堂参事会の会員となって、一二七六年にローマ教皇庁入りした。枢機卿に昇進したのちは、教皇特使としてイタリア半島やフランスを往復し、各界に多くの知遇を得た。

前任のケレスティヌス5世が在位数か月で退位を望んだとき、相談を受けたのが教会法に詳しい彼であり、辞任の方法を助言した。教皇を不眠に追い込んだのは、部下に伝声管を引かせて夜ごとささやかせた彼自身だったともいわれるが、確かなことは分からない。ただちに教皇選挙が開かれ、彼が選ばれた。最初にしたのは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免し、教皇宮をナポリからローマへ戻すことだった。登位後七年にわたって、シチリア島の奪回に力を注いだ。

ローマの有力貴族コロンナ家は、当初は教皇の傲慢さに反感を抱いたともいわれ、シチリア政策にも反対して、前教皇の退位の合法性に疑問を呈した。教皇は自らの保身のため、前教皇をフモーネ城の牢獄に幽閉した。一二九七年には、コロンナ家がアナーニからローマへ移送中の教皇の個人財産を強奪した。教皇は一族を破門し、討伐のための十字軍を招集し、コロンナ家は一二九八年に屈したが、その年のうちに反乱を起こして、フランスへ逃れた。

フランス王フィリップ4世は、戦費調達のため聖職者にも課税したが、教皇至上主義を掲げる彼はこれを容れず、聖職者への課税を禁じる勅書を出した。しかし、フィリップの祖父ルイ9世を列聖したことで、この時は対立が深まらずにすんだ。一三〇〇年には聖年を定めて祭典を挙行し、ローマに多くの巡礼者が集まって、教会の財政は潤った。ジョットをはじめとする芸術家もローマに集まった。一三〇三年にはローマ・ラ・サピエンツァ大学を設立している。一方、フィレンツェの黒派と白派の内紛をあおったため、白派に属した詩人ダンテは一三〇一年に永久追放の判決を受けた。ダンテは『神曲』の「地獄篇」で、彼を地獄に堕ちた教皇として描いた。

一三〇一年、フィリップ4世が再び教会課税を進めようとすると、教皇は一三〇二年に回勅を発し、教皇の権威は地上のあらゆる権力に優越すると宣言した。フィリップは三部会を開いて国内の支持を得て、教皇を破門した。フィリップの命を受けたギヨーム・ド・ノガレはコロンナ家と結び、一三〇三年九月、離宮のあるアナーニを襲って教皇に退位を迫った。教皇は拒み、三日間監禁されたが、駆けつけた手兵に救出された。ローマに戻った彼は動揺し、同年十月十一日に急逝した。死因は腎臓の病とされるが、人びとはこれを憤死と呼んだ。この事件ののち、教皇庁に対するフランスの圧迫は強まり、やがてアヴィニョン捕囚を迎えた。同時代のフィレンツェの政治家コンパーニは、彼を猛烈果断な気性と卓越した才能を持ち、自説に同意しない者を退けた人物と記した。学問にも造詣が深く、ヴァチカンの文書保管庫を改造して蔵書の目録を作らせたという。

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