伝記
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスは、共和政ローマ末期の政務官・軍人で、紀元前32年に執政官を務め、翌紀元前31年に没した。平民系ドミティウス氏族のアヘノバルブス家の出身で、この家は紀元前2世紀から頭角を現し、代々執政官を出していた。父は紀元前54年の執政官ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスで、紀元前48年のファルサロスの戦いで死んだ。母ポルキアは小カトーの妹であり、両親はカエサルのもっとも激しい反対者に数えられた。生年は不明である。
紀元前49年2月から、父に従って内戦の初期の戦いに加わり、カエサルと敵対する陣営にいた。コルフィニウムの包囲戦の後、父子ともカエサルに捕らえられたが、カエサルは寛大で、やがて赦された。それでも彼はポンペイウスの側に加わった。ポンペイウスの敗北後にイタリアへ戻ったが、カエサルとは和解しなかった。紀元前46年にはキケロが書簡で和平を勧めたが、聞き入れなかったらしい。のちにローマへ帰還し、恭順したともされる。紀元前45年には、キケロから母ポルキアへの追悼の文が届けられた。
カエサルの暗殺計画に加わったかどうかははっきりしない。キケロは『ピリッピカ』で彼を陰謀者に数え、紀元前43年にはオクタウィアヌスの主導で、暗殺者たちとともにペディウス法により有罪とされた。紀元前40年末のブルンディシウムの交渉でも、オクタウィアヌスは陰謀への参加を言い立て、ルキウス・コッケイウス・ネルウァは潔白を主張して食い違った。古代の著者の評価も割れており、カッシウス・ディオは有罪を疑わず、スエトニウスは疑いを退けている。ただ、暗殺の直後に共和派のブルトゥスとカッシウスに合流したのは確かである。紀元前44年半ばにはカンパニアで二人とともに艦隊の整備と増強にあたり、ブルトゥスとマケドニアへ向かった。同年末にはドラベッラの騎兵の一部が彼の指揮下に入り、紀元前43年初めには元老院に神官への任命を求めている。
紀元前42年には属州総督に準ずる権限で、ブルトゥスとカッシウスの艦隊を指揮した。五十隻の艦船を率いてイオニア海でスタティウス・ムルクスの艦隊と合流し、三頭官側の連絡線を断った。第一次ピリッピの戦いの日には、ドミティウス・カルウィヌスの艦隊を撃破し、増援の二個軍団を失わせた。この海戦の勝利で兵士から将軍に歓呼され、紀元前41年にはこれを記念する貨幣を鋳造した。貨幣の表には先祖である紀元前122年の執政官の肖像が、裏には神殿が刻まれた。敗戦の後も逃れた支持者を集め、二百隻の艦隊を整えた。ムルクスがセクストゥス・ポンペイウスのもとへ去ってからは、七十隻と二個軍団で独立して戦い、三頭官の支配下に入った沿岸を荒らした。その後、アントニウスと和睦した。仲介したのは、アントニウスをビテュニア総督としたガイウス・アッシニウス・ポッリオだったといわれる。
こうして紀元前32年に執政官となった。オクタウィアヌスとアントニウスが対立すると、はじめはアントニウス側について東方へ向かった。しかしアントニウスがクレオパトラ7世と親しくなると、彼女の影響を弱めようとしたが果たせず、袂を分かった。アクティウムの海戦の直前にオクタウィアヌス側へ移り、海戦の直後に熱病で没したとされる。子のルキウスはアントニウスの娘大アントニアと結婚し、その子で祖父と同名のグナエウスが小アグリッピナと結ばれ、ローマ皇帝ネロが生まれた。ネロは彼の曾孫にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- 呼韓邪単于 (紀元前31年没)
- アルタウァスデス2世 (紀元前31年没)
同じ地域に関係する人物
- Giuseppe Beltrami (1973年没)
- ピエトロ・マスカーニ (1945年没)
- ベネディクトゥス3世 (ローマ教皇) (858年没)
- マルケリヌス (ローマ教皇) (304年没)
- ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇) (1922年没)