伝記
ベネディクトゥス3世は、855年9月29日から858年4月17日まで在位した第104代のローマ教皇である。生年は810年とされるが確実ではなく、ローマの出身で、ペトルスの子と伝えられる。教皇に選ばれる前から学識と敬虔さで評判が高く、禁欲的な生活を送る人物であったとされる。
855年7月にレオ4世が没すると、ローマの聖職者と民衆によって後継者に選ばれた。最初に選ばれたハドリアヌスが就任を拒んだため選び直されたともいわれ、経緯は一様でない。教会で祈っていたところを民衆が行列で迎えに来て、ためらう彼を教皇の座へ連れて行ったとも伝えられる。ところが選挙の承認を得るために皇帝ロタール1世とルートヴィヒ2世のもとへ送られた使節が、破門されていた野心的な枢機卿アナスタシウスに肩入れしてしまう。有力者の一団はベネディクトゥスの選出を認めず、アナスタシウスを教皇に立てた。ベネディクトゥスは侮辱され、捕らえられ、教皇の印章を剥ぎ取られて虐待されたともされる。アナスタシウスは以前にレオ4世から退けられていた人物である。しかし聖職者と民衆の多くは彼への忠誠を守り、世論の強さの前に帝国の使節も折れざるをえなくなった。ベネディクトゥスは9月29日または10月6日に厳かに叙階されたと伝えられる。ローマの民衆は三日間の断食で神に償ったという。アナスタシウスは教会会議で断罪されたが、ベネディクトゥスは彼が信徒として聖体を受けることを許したという。ルートヴィヒ2世の使節はアナスタシウスとその支持者を寛大に扱うよう求め、この分裂は、教皇選挙に対する皇帝の支配力を弱める助けになったと評される。
在位中の活動は、フランク王国の情勢とも深く関わった。王国は内紛と外からの攻撃で混乱し、国内の教会も圧迫されていたため、ベネディクトゥスはフランクの司教たちに書簡を送り、沈黙が多くの災いを招いていると咎めた。またロタール2世の義弟にあたる有力な副助祭フーベルトの横暴を抑えようともした。ロタール1世の息子たちが父の死後に領土をめぐって争うと、その争いにも干渉した。東方では、コンスタンティノープル総主教イグナティオスとシラクサ司教グレゴリオスの対立について、どちらにも偏らない立場を保ったとされ、コンスタンティノープルに対しても断固とした姿勢で臨んだ。王女イングルトルードの婚姻の問題では、結婚の有効性を強く擁護したという。
ローマでは、846年にサラセン人の侵入で傷んだ教会の修復を続け、847年の火災で焼けたアングロ・サクソン人のための学校の復興も完成させた。ウェセックス王エゼルウルフが、のちのアルフレッド大王である息子とともにローマを訪れたのもこの時期である。
858年4月17日に世を去り、聖ペトロ大聖堂の正門の近くに葬られた。聖人のような評判を得たまま亡くなったとされる。同時代の年代記者の多くは、彼を知性と穏健さと活力に富み、敵に対しても驚くほど優しい人物として描いているという。レオ4世とベネディクトゥス3世の間に女教皇ヨハンナが在位したという伝説があるが、ベネディクトゥスの肖像を刻んだ貨幣や、855年10月7日付の書簡などの証拠から、その間に空位はなく、伝説は史実に反するとされている。
同じ年に亡くなった人物
- 李商隠 (858年没)
- ケネス1世 (スコットランド王) (858年没)
- 文徳天皇 (858年没)
- エゼルウルフ (858年没)
同じ地域に関係する人物
- トンマーゾ・ランドルフィ (1979年没)
- ロドルフォ・Lanciani (1929年没)
- シルウェステル2世 (ローマ教皇) (1003年没)
- クラウディオ・アクアヴィーヴァ (1615年没)
- スパルタコ・バンディネッリ (1997年没)