伝記
ジョン・ダグラス・コッククロフトは、1897年5月27日にイギリスのトッドモーデンで生まれ、1967年9月18日に没した物理学者である。加速した陽子を原子核に衝突させて、核変換を初めて実現し、1951年にアーネスト・ウォルトンとともにノーベル物理学賞を受けた。サーの称号を持つ。
綿工場を経営するジョン・アーサー・コッククロフトと、アニー・モード・フィールデンの長男で、四人の弟がいた。地元の学校で学び、のちの妻となるユーニス・エリザベス・クラブツリーも、同じ中等学校の生徒だった。1914年に奨学金を得てマンチェスターのヴィクトリア大学に進み、数学を学んだ。第一次世界大戦が始まると、士官訓練隊に入ったが将校になる気はなく、夏休みにはウェールズの野営地の食堂で働いた。1915年11月に陸軍に入り、信号手の訓練を受けて西部戦線に送られ、ヒンデンブルク線への前進や第三次イーペルの戦いに加わった。士官への任官を申請して認められ、1918年10月に野戦砲兵の少尉に任官した。1919年1月に除隊すると、大学には戻らず、マンチェスターの工業技術学校で電気工学を学び、1922年に卒業した。恩師の勧めで、メトロポリタン・ヴィッカース社で二年間の見習いとして働いた。続いて、奨学金を得てケンブリッジ大学のセントジョンズ・カレッジに進み、1924年に数学の学位を取った。
アーネスト・ラザフォードに研究生として受け入れられ、キャヴェンディッシュ研究所で、1928年に博士号を得た。この年から、ウォルトンとともに陽子の加速実験を始め、二人が製作した加速器は、のちに「コッククロフト・ウォルトン回路」と呼ばれた。高電圧の直流を発生させるこの回路は、物理実験以外にも多くの応用を生んだ。1932年、リチウムに加速した陽子をぶつけて、原子核の変換に成功した。元素を人工的に別の元素に変換した最初の実験で、「原子の分割」として知られる。1936年に王立協会のフェローに選ばれた。
第二次世界大戦中は、供給省でレーダーの研究に携わり、原子爆弾の実現可能性を検討する委員会の一員にもなった。1940年にはティザード使節団の一員として、イギリスの技術をアメリカに伝えた。1944年にカナダの原子力計画に加わり、モントリオール研究所の所長となって、原子炉の開発やチョーク・リバー研究所の創設を指揮した。1946年にイギリスへ戻ると、ハーウェルに原子力研究所を設立し、初代の所長となって、イギリスの原子力利用を推進した。1947年8月、ここでヨーロッパ西部で最初の原子炉が運転を始めた。ウィンズケールの原子炉の煙突にフィルターを付けるよう強く求めて、嘲られたが、1957年に原子炉の炉心が発火して放射性物質が放出される事故が起きたとき、その主張が正しかったことが示された。1959年から亡くなる1967年まで、ケンブリッジ大学チャーチル・カレッジの初代学長を務め、1961年からはオーストラリア国立大学の総長も兼ねた。1960年から二年間は、英国物理学会の会長を務めた。受けた賞には、1938年のヒューズ・メダル、1954年のロイヤル・メダル、1955年のファラデー・メダルなどがある。
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