伝記
イオアニス・メタクサスは、1871年4月12日、ギリシャ王国のイタキ島に生まれた軍人・政治家である。家はイオニア諸島の貴族名簿に載る貴族の家柄で、本人もこれを誇りにしていたという。陸軍士官学校を経て1890年に職業軍人となり、1897年の希土戦争で初めて戦場に赴いた。このとき皇太子コンスタンティノスの司令部に属し、以後、この皇太子の庇護のもとで昇進を重ねた。1899年から1903年までベルリンの陸軍大学で学び、教官の一人から、小柄な体格にかけて「小さなモルトケ」と評されるほど高い成績を残した。ドイツ滞在でプロイセン流の軍国主義の崇拝者になり、日記には、国王こそ国家の過去・現在・未来の体現者だと書き、議会政治の「無節制」を批判してドイツ流の権威主義を好むと記した。
1904年に帰国して新設の参謀本部に入り、バルカン戦争前のギリシャ陸軍の近代化に従事した。1909年のグディ・クーデターには反対した。軍事同盟が自らの敬う皇太子やほかの王子たちの指揮に反対したからである。1910年に首相ヴェニゼロスの副官となり、ブルガリアとの軍事条約の交渉にも関わった。バルカン戦争では作戦参謀として従軍し、ロンドン会議に軍事専門家として加わり、ギリシャ・セルビア同盟の軍事条項を交渉した。1913年に参謀長に任命され、将官に昇進する。
王党派の彼は、国王コンスタンティノス1世を補佐し、第一次世界大戦への参戦に強く反対した。連合国支持派の首相ヴェニゼロスは、国王がガリポリへの協力を拒むと辞任して政争化する構えを見せた。1915年の選挙に勝ったヴェニゼロスが軍を動員すると、国王は命令を取り消し、軍や民衆に国王への不満が募った。1916年8月にヴェニゼロス派の軍人がテッサロニキで反乱を起こし、革命政権は連合国の支援を受けて国土の過半を制圧した。1917年6月に国王が亡命し、ヴェニゼロスは同盟国側に宣戦布告した。メタクサスも国王とともにギリシャを離れ、コルシカに追放されて、1920年まで海外で暮らした。帰国後の1922年に君主制が廃止されると政治家となり、自由思想家党を創設したが、成功は限られた。
1935年に王政が復古し、ゲオルギオス2世が即位した。同年の総選挙は左右両派の対立が激化し、ギリシャ共産党が議席を得たこともあり、国王は陸軍相だった反共主義者のメタクサスを暫定首相に任命した。この任命は、1935年とも1936年4月ともいわれる。やがて国内の不安が広がると、非常事態宣言を出して議会を停止し、憲法を無期限に無効とした。1936年8月には独裁者としての権力基盤を固め、野党を非合法化して指導者を逮捕し、15,000人余りを獄中または国外に追放した。言論も規制されたが、民衆からは、1938年のクレタ島の暴動を除いて大規模な抗議は起こらなかった。賃金の引き上げや労働条件の改善、農民の借金の猶予といった政策もとった。国内の統制のためにファシズムの手法を真似る一方、伝統的な友好国イギリスとも友好関係を保った。
1939年に第二次世界大戦が始まると中立を試みたが、ムッソリーニは1940年にイタリア軍の自由行動権を求める最後通牒を突きつけた。10月28日にこれを拒否すると、イタリアはギリシャに宣戦布告した。メタクサスは巧みな防御戦術でイタリア軍の進撃を止め、イギリス軍の支援を得てアルバニア国境まで戦線を押し戻した。その最中の1941年1月29日、咽頭癌が悪化してアテネで亡くなり、ドイツ軍の侵攻を受ける前だった。
同じ年に亡くなった人物
- アルバート・スワード (1941年没)
- ロタール・フォン・アルノー・ド・ラ・ペリエール (1941年没)
- クルト・コフカ (1941年没)
- パノス・テルレメジアン (1941年没)
- ジョージ・ビーチャム (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- テアイテトス (数学者) (紀元前369年没)
- ヘロデス・アッティコス (177年没)
- エルンスト・ツィラー (1923年没)
- ゲオルギオス・パパシデリス (1920年没)
- Dimitrios Kiousopoulos (1977年没)