伝記
マリーナ・イヴァーノヴナ・ツヴェターエワは、1892年10月8日(ユリウス暦9月26日)、モスクワに生まれたロシアの詩人である。父イワンはモスクワ大学の教授で、のちにアレクサンドル3世美術館(現在のプーシキン美術館)を創設した人物であり、母マリアはドイツとポーランドの血を引く教養人で、ピアノの才能があった。父には前妻との間に二人の子があり、そのほかに妹アナスタシアがいた。きょうだいはしばしば激しく口論したという。母は娘の詩作に否定的で、ピアニストになってほしいと願っていた。1902年に母が結核を発病し、転地療養のため一家は国外を巡ることになり、ジェノヴァ近郊の海辺の町ネルヴィでしばらく暮らした。ここで、モスクワの堅苦しい市民生活から離れて、初めて自由にふるまい、遊びのなかで想像力を解き放った。少女時代にはナポレオンらロマン主義的な英雄に熱中した。母は1906年に亡くなった。
1904年6月、ローザンヌの学校に入り、イタリア語、フランス語、ドイツ語を習得した。母に課された厳しい音楽の勉強をやめ、詩に向かった。後年、あんな母のもとでは詩人になるほかなかったと書いている。1908年にはソルボンヌ大学で文学史を学んだ。1910年、18歳で処女詩集『夕べのアルバム』を自費出版し、高い評価を受けて詩壇に躍り出た。この詩集は詩人で批評家のマクシミリアン・ヴォローシンの目に留まり、彼は友人となり師となった。ツヴェターエワは黒海沿岸の保養地コクテベリにあるヴォローシンの家をたびたび訪れ、そこで士官学校の生徒セルゲイ・エフロンと出会った。2人は恋に落ち、1912年に結婚した。同じ年に長女アリアドナが生まれ、夫妻は革命までの夏をクリミアで過ごした。
夫を深く愛しながらも、オシップ・マンデリシュタームやパステルナークをはじめとする男女を問わない恋愛を重ね、詩作を続けた。ロシア革命のなか、エフロンは白軍に参加し、ツヴェターエワはモスクワで過ごした。1919年、次女イリーナを餓死から救おうと国立の孤児院に預けたが、娘はそこで飢えて亡くなった。亡命した夫を追い、1922年に長女とともにベルリンに脱出し、その後はチェコやパリを転々として亡命ロシア人社会で創作を続けた。パリの亡命社会では最初は歓迎されたが、のちに疎外され、長男が生まれる一方で生活は困窮した。エフロンはソ連に傾倒して帰国を熱望するようになった。
ソ連の諜報機関の工作にかかわって、娘とともにソ連に戻った夫を追い、1939年に息子とともに帰国した。その後、エフロンと娘は逮捕された。窮状に追い込まれたツヴェターエワは、1941年、疎開先のタタール自治共和国のエラブガの農家で首を吊って自殺し、同地に埋葬された。エフロンは処刑され、息子もベラルーシ方面で戦死した。作品はソ連体制下で長く存在を無視されたが、スターリン体制が終わり、流刑から解放された娘アリアドナが母の作品を発掘したことが、1960年代の復権につながった。現在のロシアでもっとも人気のある詩人の一人である。2006年にはタルーサに、2018年にはモスクワ市内にも銅像が建てられた。
同じ年に亡くなった人物
- ギリェルモ・カーロ (1941年没)
- ヴェルナー・ゾンバルト (1941年没)
- ルイ・マルクーシ (1941年没)
- カリン・ボイェ (1941年没)
- ロバート・バイロン (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- Aleksandr Kurynov (1973年没)
- Maguba Syrtlanova (1971年没)
- Fyodor Simashev (1997年没)
- ガブドルハイ・アハトフ (1986年没)
- Mikhail Devyatayev (2002年没)