伝記
カリン・ボイェは、1900年10月26日、スウェーデン第二の都市イェーテボリの裕福な家庭に生まれた詩人・小説家である。両親は思想的にも政治的にもリベラルな反軍国主義者で、読書家でもあった。1909年に一家はストックホルムへ移り、ボイェは1920年まで女学校で学んだのち、教員養成の課程に進んだ。1921年から1926年にはウプサラ大学で学び、ギリシア古典と古ノルド語を専攻した。1922年、最初の詩集『雲』を刊行して、文壇に登場した。ショーペンハウアーやニーチェ、フレーディングらの詩人の影響を受けて、詩は当初から、キリスト教に対する個人の自由の権利を主題としており、『隠された国』(1924年)や『炉』(1927年)でそれを発展させた。美の崇拝や闘争心、動的な動きが詩の中心にあった。
ウプサラ時代から1930年まで、社会主義と反ファシズムを掲げるクラルテ運動のスウェーデン支部に加わり、1927年にはその設立にも携わった。翌1928年にはクラルテの仲間とスターリン体制のソヴィエトを訪れた。帰国後にソヴィエトをあからさまには批判せず、多くの左翼知識人のように手放しで賞賛もしなかったが、その閉塞的な印象が、後年の小説『カロカイン』を構想するきっかけになったと思われる。1920年代からフロイトやアドラーの学説に傾倒し、1931年には精神分析の専門誌の創刊に力を尽くした。同じ年、友人らと詩の雑誌を創刊し、エリオットやシュルレアリスムをスウェーデンの読者に紹介した。エリオットの作品の多くを訳し、『荒地』も共訳している。1931年からは、スウェーデンの文学団体「九人会」の会員にもなった。
1929年、クラルテの仲間で7歳年下のレイフ・ビョルクと結婚したが、3年足らずで破局した。友情に近い結婚だったとされる。その後、鬱状態に陥ってストックホルムを離れ、ベルリンで精神分析を受け、自らの同性愛を肯定した。1932年から翌年のベルリン滞在中に、マルゴット・ハーネルと出会い、生涯の伴侶として「妻」と呼んだ。翻訳や雑誌への短編、新聞への評論で暮らし、1936年から1938年までは学校の教師を務めたが、鬱の時期と自殺未遂に苦しんだ。
1931年の小説『アスタルテ』はブルジョワ文化への批判で、北欧の小説賞を得て、広く知られるようになった。1934年の『危機』は、自身の宗教的危機と同性愛を描いたとされる。1935年の詩集『木のために』は、同時代の批評家には難解だとされたが、のちの読者には最も強い詩集と見なされている。1940年に刊行した『カロカイン』は、最もよく読まれる小説で、台頭するナチスのドイツを訪れた経験に着想を得たディストピア小説である。真実を語らせる薬を発明した理想主義の科学者を主人公に、個人の自由と、国家による管理の必要を対比させた。1940年6月から11か月間、ボイェは、癌を患う友人を看病するためアリングソースで暮らし、この間に『カロカイン』などを書いたが、鬱は悪化していた。
1941年4月23日、睡眠薬を持って滞在先の家から姿を消し、27日に、丘の大岩のそばで農夫に発見された。没日は4月24日とされ、40歳だった。5月4日にイェーテボリの墓地に葬られ、マルゴットも間もなく自ら命を絶った。未完の詩集『七つの大罪』は同年に出版された。日本語に訳された著作は、『カロカイン』のみである。
同じ年に亡くなった人物
- クルト・コフカ (1941年没)
- アニー・ジャンプ・キャノン (1941年没)
- 南方熊楠 (1941年没)
- グリゴリー・シュテルン (1941年没)
- エカテリーナ・ゼレンコ (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- グンナー・オルソン (1974年没)
- John Jarlen (1955年没)
- エルンスト・アンデション (1989年没)
- グンヒルド (1060年没)
- Holger Hansson (2014年没)