HISTORICAL PERSON · 1941年没

アーサー・エヴァンズ

イギリスの考古学者。クレタ島のクノッソス遺跡を発掘し、線文字Aと線文字Bを定義した。エーゲ文明研究の先駆者。

生涯
1941年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / Youlbury House)
出生地
イギリス連邦(ナッシュ・ミルズ)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

アーサー・ジョン・エヴァンズは、1851年7月8日、イングランド、ハートフォードシャーのナッシュ・ミルズで生まれたイギリスの考古学者である。クノッソス遺跡の発掘で知られ、青銅器時代のエーゲ文明の研究の先駆者とされる。父ジョン・エヴァンズは、製紙工場を営む母方の叔父ジョン・ディキンソンの会社で働き、1850年にいとこのハリエットと結婚した。祖父アーサー・ベノニは文法学校の校長で、父もラテン語に通じ、古典の著者を引用できた。父は会社の役員でありながら、貨幣学や地質学、考古学で名を成した人物で、1859年にはソンム渓谷の地質調査も行った。この工場の利益は、のちのエヴァンズのクノッソスの発掘や復元、出版の資金となった。

エヴァンズはその最初の子であった。祖母は彼を「かわいいトロット」と呼び、父に比べて「少しできが悪い」と書き残している。7歳の時、母が出産後に亡くなった。二人の弟ルイスとフィリップ、二人の妹ハリエットとアリスがいて、生涯良好な関係を保った。継母のファニーともよく付き合ったが、彼女は先に亡くなった。1865年、14歳でハーロー校に入り、最終学年には校内誌の共同編集者を務めた。視力は近くを離れるとぼやけたため、「プロジャー」と名づけた杖で周囲を探った。機知が鋭すぎて、自分で創刊した風刺誌は第1号で学校に止められた。

1870年にオックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジに入学し、近代史を学んだ。夏の休暇には弟たちと大陸に出かけ、危険と見られる状況にも冒険を求めた。1871年6月にルイスとともに、父が1866年に発掘したハルシュタットを訪れ、普仏戦争が終わった翌月のフランスを通って、プロイセン軍が占領するアミアンにも行った。国境でスパイと間違われて撃たれないよう黒いマントを脱ぐように言われたという。のちに1884年から1908年までオックスフォード大学のアシュモレアン博物館の学芸員を務め、1901年に王立協会のフェローに選ばれた。

クレタ島のクノッソスでは、1877年にミノス・カロカイリノスが最初の発掘を始めたが、3週間でオスマン当局に止められていた。それから約30年後に、エヴァンズはこれを知り、私財で宮殿の土地を含む一帯を買い取り、シュリーマンの影響も受けて、1900年に自らの発掘を始めた。出土した遺構や遺物から、ミノア文明をミケーネ文明と区別する必要があると考えた。「線文字A」と「線文字B」を最初に定義した人物でもあり、これらの文字が刻まれた粘土板を掘り出した。線文字Bは非ギリシア語を表すと考えたが、のちに否定された。自分で解読しようとして粘土板をごく一部しか公表しなかったため、線文字Bの解読が大きく遅れる要因ともなった。著書に『クノッソスのミノス王宮』がある。遺跡の復元に一部コンクリートを使ったことには批判もあるが、当時の発掘者が出土品を持ち去る傾向にあったことも考慮されるべきだとされる。

バルカン半島や中東の勢力と非公式に交渉し、バルカン半島の革命組織の要請で、ユーゴスラビアの国家形成にも重要な役割を果たした。1911年に考古学上の業績でナイトに叙され、1925年にトーマス・ハクスリー記念賞を、1936年にコプリ・メダルを受けた。同年、展覧会の会場で偶然出会ったパブリックスクールの一行に、ミノア文明の部屋を案内して解説し、一行の中にいた少年マイケル・ヴェントリスが粘土板について尋ねた。この出会いが、ヴェントリスが後に線文字Bを解読する興味につながったとされる。エヴァンズは1941年7月11日に没した。

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