伝記
ヴァルター・ヘルマン・ネルンストは、1864年6月25日、プロイセンのブリーゼン(現在のポーランド・ヴォンブジェジノ)に生まれたドイツの化学者・物理化学者である。グラウデンツのギムナジウムに入ってラテン語で優秀な成績をとった。初めは詩人を志したが、化学の教師の影響で科学者への道を目指すようになった。卒業後はチューリッヒ、ベルリン、グラーツで学び、1886年にヴュルツブルク大学に移って学位を取った。グラーツではボルツマンのもとでエッティングスハウゼンと共同研究を行い、1887年に論文にまとめた成果は、エッティングスハウゼン効果、ネルンスト効果として知られる。ヴュルツブルクではコールラウシュやアレニウスらとも研究し、のちにオストヴァルトから助手になるよう頼まれて、アレニウスとともに引き受けた。グラーツで1年を過ごした後、オストヴァルトのいるライプツィヒ大学に移り、ガルヴァーニ電池を研究して認められ、講師となった。
1899年にはゲッティンゲン大学の講師となった。ギーセン大学やミュンヘン大学からも誘いがあり、プロイセンの文部次官は引き留めた。ネルンストは大学に実験室を作ることを条件に、物理化学の助教授としてゲッティンゲンに残り、1895年に実験室を含む研究所が作られた。1892年にエンマ・ローマイヤーと結婚し、5人の子をもうけた。ゲッティンゲン時代には、電灯に使える新しい固体電解質を発見し、その特許権を電機会社に100万マルクで売却して、研究室の拡張に使った。研究室には国内外から40人の学生が集まり、夫妻は自宅にも研究生を招いて交流に努めた。
1905年、41歳でベルリン大学の教授となった。赴任して間もなく、物理化学の講義中に熱化学に関する着想がひらめいた。これがのちの熱力学第三法則で、確かめる実験を1914年まで続けた。ある化学反応が進む向きは化学親和力で決まると考えられていたが、発熱量から親和力を求めようとすると積分定数が出て求められず、当時の熱力学の不完全さを示していた。ネルンストは、低温や固体では親和力と発熱量がほぼ等しいという事実に注目し、絶対零度に近づくにつれて両者の差は無限に小さくなると考えた。発表当時は意味を理解できる人が少なかったが、のちに実験で裏付けられ、熱力学の基本法則となった。1889年には電位とイオン濃度の関係を示すネルンストの式を発表した。1911年には、ソルベーとともにソルベー会議を開いている。
1914年に第一次世界大戦が始まると、長男と次男は戦場へ出て、50歳のネルンスト自身も志願して軍に入り、武器の研究開発にたずさわった。1917年に大学に戻ったが、1918年の終戦までに2人の息子を失った。戦後は戦争犯罪人として告発される恐れがあり、一時スウェーデンやスイスに移ったが、科学者が名簿から外されるとベルリンに戻った。1920年に熱力学第三法則の功績でノーベル化学賞を受賞し、翌年にはベルリン大学総長に選ばれた。1933年に引退してツィベレの家に暮らし、翌年には70歳の誕生会が開かれた。ナチスを嫌っており、ユダヤ人と結婚した娘2人は国外へ逃れなければならなかった。1941年11月18日、妻エンマに見守られて亡くなった。遺骨は現在、ゲッティンゲンでプランクとラウエの間に埋められている。
同じ年に亡くなった人物
- フランク・ウォーラー (1941年没)
- マット・マクグラス (1941年没)
- エードゥアルト・フォン・ベーム=エルモッリ (1941年没)
- ギュンター・プリーン (1941年没)
- グイド・アドラー (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルン (1873年没)
- マリヌス・ファン・デア・ルッベ (1934年没)
- ヴラジスラフ2世 (1174年没)
- ハインリヒ4世 (ザクセン公) (1541年没)
- ヨハン・アダム・ヒラー (1804年没)