HISTORICAL PERSON · 1299年没

ノガイ

ジョチ・ウルスの有力者。東ローマ・ハンガリー・ポーランドなど各地に出兵して勢力を広げ、ハン位の廃立にも介入したが、最後はトクタとの戦いで敗死した。

生涯
1299年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ノガイは、ジョチ・ウルスの有力者である。チンギス・カンの長男ジョチの曽孫にあたり、父はタタルという。生年は伝わらない。ハンの位には就かなかったが、そのときどきのハンとともに国を治める共同統治者のような立場にあり、ドニエプル川より西の地域では思いのままに力をふるった。ルーシの年代記は彼に皇帝の称号を与え、クリミアのフランシスコ会の宣教師は共同皇帝として語った。のちにイスラム教に改宗したことでも知られる。

バトゥのヨーロッパ遠征のあと、ノガイは1万の兵を預けられ、今のモルダヴィアやルーマニアのあたりの辺境守備を任された。伯父のベルケの下で力をつけ、ブルンダイの指揮するポーランド遠征には、トゥラ・ブカとともに副将として加わり、サンドミェシュやクラクフなどを略奪して頭角を現した。

1262年、ジョチ・ウルスとイルハン朝のあいだに内戦が起こると、ノガイは3万の兵の指揮官となり、カフカス地方を襲ってフレグの本隊を北へ引き寄せた。先鋒部隊を全滅させたが、12月にシャブランで撃退された。フレグがテレク川に進軍すると、ノガイは待ち伏せで多くを討ち、イルハン朝軍は敗走した。この勝利で彼の名はいっそう高まった。1265年7月には、東ローマ帝国のミカエル8世パレオロゴスの軍を破り、トラキアの町を破壊したと伝えられる。その後、ミカエル8世の娘エウフロシュネーを妃に迎え、同盟を結んだ。ただし、この遠征はノガイではなく、ブルガリアと結んだ傭兵によるものだったとの見方もある。同じ年の冬には、フレグの後継者アバカのイルハン朝へ攻め入ったが、片目を失い、退却した。ベルケが自ら軍を率いて親征したものの、1267年1月に急死した。

次のモンケ・テムルの時代には、前線指揮から退いて、ドナウ川下流域に遊牧地を与えられた。勢力はウルスの王族の中でも最も西に位置し、リトアニア(1275年)、コンスタンティノープル(1285年)、ハンガリー(1285年)、ポーランド(1287年)などへ、たびたび出兵した。1280年にモンケ・テムルが亡くなると、左翼のコニチと相談して、後継者に、息子ではなくバトゥ家の最年長者であるトダ・モンケを立てた。この時期、ノガイは右翼の最有力者となり、ウルス全体の実力者として認められた。

1287年、トダ・モンケが廃位され、トゥラ・ブカが即位した。トゥラ・ブカらは、クーデターに加わらなかったモンケ・テムルの子トクタの有能さを知り、これを除こうとした。逃れたトクタに援助を求められたノガイは、領地から東へ進み、病気を装ってトゥラ・ブカらを誘い出し、見舞いに来たところをトクタに襲わせて殺させた。こうして1291年にトクタが擁立された。しかしやがてトクタと対立し、1299年にドン川のほとりで戦った。トクタは敗れてサライまで逃げたが、ノガイの軍がクリミア半島の諸都市を略奪したため、配下の将軍たちが非難し、ひそかにトクタに協力を申し出た。反撃に出たトクタに、ノガイとその息子たちは敗れた。息子たちはハンガリー方面の領地に逃げたが、ノガイ自身は戦死した。ルーシ人の兵士に殺されたともいい、捕らえられて連行される途中で傷が悪化して死んだともいう。

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