HISTORICAL PERSON · 1295年没

サンチョ4世 (カスティーリャ王)

カスティーリャ王。父アルフォンソ10世を廃して即位し、マリーン朝の侵攻を撃退してタリファを奪うなど国土防衛に努めた。

生涯
1295年没
死亡地
スペイン王国(トレド県 / トレド)
出生地
スペイン王国(セビリア)
出典
世界地図
スペイン王国(トレド県)

伝記

サンチョ4世は、カスティーリャ王国の国王である。「勇敢王」と呼ばれた。1258年5月12日に生まれたとされるが、生まれた年を1257年とする説もあり、生地もバリャドリッドともセビリャともいわれる。父はアルフォンソ10世、母はアラゴン王ハイメ1世の娘ビオランテ・デ・アラゴンで、兄にフェルナンド・デ・ラ・セルダがいる。1269年にブルゴスで、兄とフランス王ルイ9世の娘ブランシュの結婚式が行われ、サンチョはこれに出席して、父から騎士に叙された。

1275年、北アフリカのマリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブが、グラナダ王ムハンマド2世と協力してスペインに上陸した。王太子の兄は父に代わって防衛に向かう途中で亡くなり、サンチョが急いで指揮を執ってセビリャへ向かい、翌1276年にヤアクーブがアフリカへ引き返すまで抗戦した。兄の死後、カスティーリャの慣習法では次男のサンチョに継承権が移るはずだったが、法典のシエテ・パルティダスは、亡き兄の子らに権利があると定めていた。父は当初サンチョの望みに応じる姿勢を見せたが、王妃や、兄の妻の兄であるフランス王フィリップ3世の圧力で、兄の遺児たちに補償をせざるをえなくなった。サンチョは、父が兄の長男アルフォンソのためにハエンに王国を作ろうとしたことにも反対した。議会を開いて自らが後継者であることを認めさせたとされ、1282年にはサンチョと貴族の多くが父に反旗を翻し、アルフォンソ10世から権限を取り上げた。王の位までは奪わなかった。この年、サンチョは従叔母のマリア・デ・モリナと結婚した。血縁が近かったため教皇の許可が得られず、フランス王を仲介にしようとして失敗し、使者として送られたバリャドリッドの修道院長ゴメスが責任を問われて投獄された。

アルフォンソ10世は息子を呪い、遺言でも相続から外した。かつての敵のマリーン朝の助けを得て勢いを取り戻しかけたが、1284年4月4日にセビリャで亡くなった。サンチョは4月30日にトレドで戴冠し、ほとんどの都市と貴族に認められた。甥たちを推す一派も残り、1288年にはアラゴン王アルフォンソ3世がアルフォンソ・デ・ラ・セルダをカスティーリャ王と宣言させ、1289年から翌年にかけて短い遠征を行った。治世を通じて内部の争いが絶えず、とくに弟のファン王子が不和の種をまき、有力貴族ロペ・ディアス・デ・アロがその側についた。サンチョはロペ・ディアスを処刑させ、王子を投獄した。年代記によれば、ほかにも甥たちの支持者を、バダホスで4,000人、タラベラで400人など各地で処刑させたという。

1291年にハイメ2世がアラゴン王になると、モンテアグード条約を結んで和解した。同じ年、サンチョはマリーン朝の上陸を防ぐ遠征を行い、グラナダ王の援助を受けて、翌1292年にタリファをマリーン朝から奪い、叔父のドン・ペドロを捕らえた。ところがタリファをグラナダ王に与える約束を破って自ら領有したため、グラナダとマリーン朝が再び手を結んでタリファを包囲した。守備隊長のアロンソ・ペレス・デ・グスマンが包囲に耐え、タリファはカスティーリャ領にとどまった。1293年には、アルカラ・デ・エナーレスに、のちのマドリード・コンプルテンセ大学の原型となる学術機関を作った。

1295年、サンチョはトレドで36歳で亡くなった。直前に王妃マリアを、9歳の息子フェルナンド4世の摂政に任じていた。マリアとのあいだには、イサベル、フェルナンド4世、ペドロ、フェリペ、ベアトリスの子があった。

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