伝記
ブトヴィーダスは、13世紀末のリトアニア大公である。プクヴェラス、リウトベラス、ブディヴィダスなど、名前の形はいくつも伝わっており、本来の名は分かっていない。のちのゲディミナス朝の始祖とされ、大公ヴィテニスとゲディミナスの父と考えられている。
出自についてははっきりしない。大公トライデニスの子とみる研究者もいる。14世紀末に書かれたロシアの文学作品『ザドンシナ』に、ゲディミナス家の者が自らを「スカルマンタスの曽孫」と名乗る記述があることから、父はスカルマンタスだったとする見方もある。後世の年代記は、彼をジェマイティアの出身と記している。
ブトヴィーダスの名が確かな記録に初めて現れるのは1289年の4月から5月にかけてである。兄の大公ブティゲイディスとともに、ヴォルィーニ公国との和平条約に従い、ヴォルコヴィスクの町をルーシの公ムスチスラフに引き渡した。兄の治世には彼の影響力が強く、兄弟が大公の座を共有していたのではないかとみる歴史家もいる。ブティゲイディスが1290年か1291年に亡くなると、ブトヴィーダスが後を継ぎ、ひとりで大公として治めるようになった。
1291年には、ドイツ騎士団の年代記作者ペーター・フォン・ドゥスブルクが、彼を「リトアニアの王」と呼び、ヴィテニスらの息子に軍を率いさせてクヤヴィのポーランド人と戦わせたと記している。治世は短く、ドイツ騎士団は毎年のようにジェマイティアを攻め、騎士団と結ぶマゾフシェのポーランド人とも戦いが続き、隣のルーシの諸公国ではモンゴルの影響が強まっていた。ブトヴィーダスは騎士団からの守りを固めようとし、マゾフシェにも攻め入ったとされる。1292年には、息子のヴィテニスが初めて記録に登場し、騎士団との戦いに送られている。この時代に、のちにゲディミナスが受け継ぐ円柱の紋が一族の印になったという。ただし、彼の政策や戦いを具体的に記した記録は残っておらず、詳しいことは分かっていない。
ブトヴィーダスは1294年か1295年に亡くなり、ヴィテニスが後を継いだ。子は少なくとも4人いたとされ、ヴィテニス、ゲディミナスのほか、のちにポロツク公となるヴァイニウスと、キエフ公となるテオドラスの名が挙がる。ルーシの公に嫁いだ娘がいたとみる研究者もあり、その娘は夫の死後ヴィリニュスに移り、そこで余生を送ったという。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・プロヴァンス (1295年没)
- オットーネ・ヴィスコンティ (1295年)
- ベアトリス・デ・ナバラ (ブルゴーニュ公妃) (1295年没)
- サンチョ4世 (カスティーリャ王) (1295年没)
- ギルバート・ド・クレア (第7代グロスター伯) (1295年)
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