HISTORICAL PERSON · 紀元前42年没

ガイウス・カッシウス・ロンギヌス

エピクロス派の信奉者で、カエサル暗殺の首謀者の一人。カルラエの敗戦後にパルティアの侵攻を防いだ有能な軍人で、暗殺の実務面を担った。フィリッピの戦いで自軍の敗北を誤解して自ら命を絶った。

生涯
紀元前42年没
死亡地
ギリシャ共和国(東マケドニア・トラキア / ピリッポイ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
ギリシャ共和国(東マケドニア・トラキア)

伝記

ガイウス・カッシウス・ロンギヌスは、共和政ローマ末期の政務官・軍人で、紀元前87年または86年頃に生まれ、紀元前42年に没した。マルクス・ユニウス・ブルトゥスらとともにガイウス・ユリウス・カエサル暗殺の首謀者の一人として知られる。ローマで古くから続くカッシウス氏の出で、若い頃に学校で独裁官スッラの息子と喧嘩をし、専制を嫌う気質を示したという話が伝わる。ロドス島で哲学を学んでギリシア語に通じ、エピクロス派の教えに従った。妻はブルトゥスの異父妹ユニア・テルティアで、紀元前60年頃に生まれた息子が一人いた。単にカッシウスやカシウスと表記されることも多い。

紀元前54年または53年、クァエストルとして第一回三頭政治の一人クラッススのパルティア遠征に従った。紀元前53年のカルラエの戦いは大敗に終わったが、カッシウスは敗残兵をまとめてシリアへ退き、属州の防衛態勢を整えた。クラッススがパルティアへ侵攻する前にカッシウスの忠告に耳を貸していれば大敗を避けられたかもしれない、との見方もある。紀元前52年からはシリア防衛にあたってユダヤ人の反乱を鎮圧し、紀元前51年にはアンティオキア近郊でパルティア軍を撃退した。このときはまず城壁の内に籠もって戦いを避け、相手が包囲を解いて田園を荒らし始めると後を追い、退却を装って伏兵のいる場所へ誘い込んで包囲した。

紀元前49年の護民官に選ばれると、内戦ではポンペイウスら元老院派についた。ポンペイウスから艦隊の一部を任され、紀元前48年にはシチリアでカエサルの艦隊の多くを焼き討ちにした。しかしファルサルスの戦いでポンペイウスが敗れると、黒海方面のポントス王ファルナケス2世と手を結ぼうとヘレスポントスへ向かったが、途中でカエサルに追いつかれて無条件降伏を余儀なくされた。許されたカッシウスはアレクサンドリア戦争に加わったが、アフリカでの戦いには加わらずローマに引きこもった。紀元前44年には外国人係プラエトルとなったが、年下の義弟ブルトゥスが首都プラエトルに任じられたことに深く心を傷つけられたという。

王位を望んでいると見られたカエサルの暗殺計画で、カッシウスは実務面の中心を担ったとされる。精神的な指導者となったのは、王政を廃したルキウス・ユニウス・ブルトゥスの末裔といわれ、ストア派で廉潔な人柄で知られたブルトゥスである。カッシウスは腹心のマルクス・アントニウスも同時に殺すべきだと主張したが、大義を重んじるブルトゥスはカエサル以外の血が流れることを望まず、標的はカエサル一人と決まった。紀元前44年3月15日、カッシウスは自らもカエサルの胸を突いた。

しかしアントニウスの追悼演説などによって情勢は共和派の望まぬ方向へ動いた。カッシウスは任地シリアへ向かい、カエサル派のドラベッラを破って軍勢を整えた。やがてブルトゥスと合流し、重税を課して反攻に備えた。第二回三頭政治との決戦はフィリッピで行われ、カッシウスはアントニウスの軍と対した。ブルトゥスがオクタウィアヌス軍を優勢に押す一方、カッシウスは押し込まれ、自軍が全面的に敗れたと誤解し、騎兵隊が近づくのを見て自ら命を絶った。その後の二度目の戦いで共和派は完敗し、ブルトゥスも自殺した。名声は長く残り、帝政期にはカッシウスが「最後のローマ人」と称されることもあった。一方、ダンテは『神曲』で二人をユダとともに地獄の最下層に置いた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物