HISTORICAL PERSON · 1207年没

ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)

モンフェッラート侯で、ティボー3世の死後に第4回十字軍の指導者となった。コンスタンティノープル攻略後、ラテン皇帝にはなれずテッサロニキ王国を建国したが、1207年にカロヤンに急襲され戦死した。

生涯
1207年没
死亡地
ギリシャ共和国(東マケドニア・トラキア / Mosynopolis)
出生地
イタリア共和国(ピエモンテ州)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(東マケドニア・トラキア)

伝記

ボニファーチョ1世・デル・モンフェッラートは、モンフェッラート侯(在位1192年から1207年)で、第4回十字軍の指導者となり、テッサロニキ王国をつくって、その王(在位1205年から1207年)となった人物である。1150年ごろ、モンフェッラート侯グリエルモ5世と、オーストリア辺境伯レオポルト3世の娘ユーディト・フォン・バーベンベルクの三男として生まれた。兄に、エルサレム王女シビーユと結婚してボードゥアン5世の父となったグリエルモ、ティルスの防衛で活躍してエルサレム王となったコッラードがいる。若いころから数々の冒険譚があり、宮廷のトルバドゥールのライムバウト・デ・ヴァケイラスによって、その様子が詩に詠まれている。皇帝フリードリヒ1世とハインリヒ6世の父子に従い、シュタウフェン朝のイタリア攻略に参加した。

1189年には、従兄弟ウンベルト3世の子トマス1世の摂政会議を率いて、トマスが成人する2年後までつとめた。1191年に、皇帝ハインリヒ6世からインチーザ伯領を与えられると、近隣のアスティとアレッサンドリアの町との15年に及ぶ戦争が始まった。1192年に、兄の跡を継いでモンフェッラート侯となった。1194年からは、ハインリヒ6世のシチリア遠征に加わった。モンフェッラート家は、ヨーロッパ中の有力な家系と縁組をしており、フランス王フィリップ2世や、皇帝ハインリヒ6世・フィリップ兄弟は従兄弟にあたる。当時のピエモンテは、オック語圏であり、その宮廷は宮廷詩人や騎士道物語など、文化の中心として栄えた。

1201年、第4回十字軍の指導者であったシャンパーニュ伯ティボー3世が亡くなると、ボニファーチョ1世は、自身の軍歴、ヨーロッパの王家との縁戚、エルサレム王国や東ローマ帝国の事情に詳しいことなどから、新しい指導者に選ばれた。同年のクリスマスには、従兄弟のローマ王フィリップを訪ね、フィリップの義弟である東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス(のちのアレクシオス4世)と会っており、このとき、コンスタンティノープルの攻撃が計画されたと推定されている。第4回十字軍は、ヴェネツィア共和国の思惑もあって、ハンガリー王国のザラを攻略したのち、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。

1204年のコンスタンティノープルの攻略ののち、ボニファーチョ1世は、アレクシオス4世の父イサキオス2世の未亡人で、ハンガリー王ベーラ3世の娘マルギトと結婚した(1205年とする記述もある)。ラテン帝国の皇帝の最有力候補とされていたが、強力な皇帝を嫌うヴェネツィアの意向で、フランドル伯ボードゥアン9世がボードゥアン1世として選ばれた。ボニファーチョはボードゥアンと対立し、同じ年にギリシャでテッサロニキ王国を建てた。しかし、北からのブルガリア帝国の脅威に絶えずさらされ、1207年9月、カロヤンの急襲を受けて戦死した。モンフェッラート侯国は、先妻ヘレナ・デル・ボスコの子で長男のグリエルモ6世が、テッサロニキ王国は、後妻マルギトの子で次男のデメトリオが継いだ。

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