伝記
サラーミシュは、マムルーク朝のスルターンである。正式にはアル・マリク・アル・アーディル・バドル・アッディーン・サラーミシュと称し、アーディル・サラーミシュの名でも知られる。1272年にカイロで生まれ、第5代スルターンのバイバルスの子であり、第6代スルターンのバラカの弟にあたる。父や兄と同じく民衆に慕われた人物で、後世の歴史家イブン・タグリビルディーは、整った顔立ちで髪が長く、つつましく分別のある若者だったと記している。詩人たちが彼の美しさを歌い、「サラーミシュの口もと」という言い回しが美しさのたとえになったという。
1279年、兄のバラカは将軍たちに迫られて退位し、カラクの城塞へ移された。将軍たちはまず有力者のカラーウーンに王位を勧めたが、カラーウーンは、自分は位が欲しくて兄を退けたのではなく、王権はバイバルスの子孫から出るのがよいと述べて辞退した。この態度が主だった将軍たちの支持を集めたとされる。そこで当時7歳のサラーミシュが城塞に召され、アーディルの称号でスルターンに就いた。法官の長ブルハーン・アッディーン・アッ=サンジャーリーが宰相に、アイバク・アル=アフラムが副王に任じられ、カラーウーンはアタベク、すなわち軍の長であり幼い君主の後見役として、政務と軍事を取り仕切った。即位の知らせはシリアにも書簡で伝えられ、ダマスカスでもカイロでも人々が忠誠を誓った。公衆礼拝ではサラーミシュの名とともにカラーウーンの名が読み上げられ、貨幣にも二人の名が並べて刻まれ、父バイバルスの称号も添えられた。
実権を握ったカラーウーンは、バイバルスの旧臣であるザーヒリー派の将軍たちを次々に捕らえて牢に入れ、一方で自分と同じサーリヒー派の将軍たちには領地や役職を与えて味方につけた。国内が自分の手に収まったと見ると、将軍や法官や名士を城塞に集め、国は一人前の男でなければ治まらないと述べた。集まった人々がこれに賛同し、サラーミシュは名目だけのスルターンとして百日ほどで廃位され、同年11月にカラーウーンが即位した。
廃位されたサラーミシュは、兄のバラカが先に送られていたカラクへ移された。1280年にダマスカス総督のソンコルがカラーウーンに反乱を起こすと、これに加わった。バラカの死後は、バラカの後を継いでカラクを預かった弟のヒドルとともにこの地にとどまった。
1286年、カラーウーンは副王のタルンタイを派遣してカラクを包囲させた。サラーミシュとヒドルは数日のうちに身の安全を求めて降伏し、カイロに移された。カラーウーンは二人を温かく迎え、それぞれを百騎長に任じて、自由に動き回ることも許した。ところが四年後、カラーウーンの子のアシュラフが、二人がザーヒリー派の将軍たちと連絡を取っていると父に告げたため、二人は母とともにアレクサンドリアで拘束された。アシュラフ・ハリールがスルターンになると、1291年に一家はコンスタンティノープルへ追放され、サラーミシュは同じ年にその地で亡くなった。二十歳に近い年齢だったという。母は遺体に防腐の処置をして棺に納め、手元に置き続けた。1297年に棺はエジプトへ運ばれ、カイロの墓地に葬られた。姉が夫のスルターン・ラージーンに取りなしたことで実現したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Guillaume de Beaujeu (1291年)
- アルグン (1291年没)
- トゥラ・ブカ (1291年没)
- サアディー (1291年没)
- エリナー・オブ・プロヴァンス (1291年没)
同じ地域に関係する人物
- Duygu Asena (2006年没)
- カラマニ・メフメト・パシャ (1481年没)
- イスマーイール・パシャ (1895年没)
- ヒュセイン・ニハル・アトスズ (1975年没)
- Rober Eryol (2000年没)