伝記
ムイズッディーン・カイクバードは、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第10代の君主である。1270年ごろ、ベンガル総督ブグラー・ハーンの子として生まれた。祖父はデリーのスルターン、ギヤースッディーン・バルバンである。生年は1269年とする記述もある。
1285年3月9日、バルバンの息子ムハンマド・ハーンが、ベアス川の戦いでモンゴル軍に殺された。バルバンは衝撃から立ち直れなくなり、最期のころ、ベンガルにいたブグラー・ハーンを呼び寄せたが、ブグラー・ハーンは父の厳しい性格を避けて、ベンガルへ戻ってしまった。バルバンは、亡きムハンマド・ハーンの息子カイ・ホスローを後継者に選んでいた。しかし1287年にバルバンが亡くなると、デリーの長官ファフルッディーンは、この指名を退けて、17歳だったカイクバードを即位させた。
若い新しいスルターンは、酒と女に溺れ、廷臣たちもそれにならった。祖父の質素さとは対照的な宮廷生活で、政務にもあまり関心を示さず、実権は、統治を任されていた貴族のマリク・ニザームッディーンに握られた。ニザームッディーンは、カイ・ホスローをムルターンに退けて殺し、バルバンの時代からの主な貴族らを政権の中枢から外したり殺したりして、自分が王であるかのように振る舞った。バルバンが築いた防衛のための城塞のしくみのおかげで、帝国はモンゴルの侵入に耐えることができた。
1288年2月から、父のブグラー・ハーンが大軍を集めてビハールに入り、デリーをうかがった。カイクバードは、ニザームッディーンにうながされて、軍を率いて父に向かった。両軍は北ビハールで向かい合ったが、カイクバードは父への愛情から駆け寄って泣く父を抱きしめたといわれ、戦いは起きなかった。ベンガルとデリーとのあいだに和平が結ばれ、のちの君主たちにも守られた。
その後、治世の4年目にあたる1290年、カイクバードはニザームッディーンに自分まで殺されるのではないかと恐れ、部下に命じて彼を暗殺させた。ジャラールッディーン・ハルジーを新しい軍の司令官にしたが、この殺害と任命はトルコ系の貴族のあいだに不満を広げた。カイクバードは、過度の酒色や脳卒中のためか、体が動かなくなり、国政に加われなくなった。バルバンの時代からの貴族たちは彼を退位させ、幼い息子シャムスッディーン・カユーマルスを擁立した。しかしジャラールッディーンのハルジー族はデリーの宮殿を先に攻めてカユーマルスを捕らえた。カイクバードは、ジャラールッディーンに命じられた者に殺された。かつてカイクバードがその父を殺したという人物であった。亡くなった日は、2月1日、6月、10月14日と、記述が分かれる。奴隷王朝は終わり、ハルジー朝が始まった。
同じ年に亡くなった人物
- マーガレット (スコットランド女王) (1290年没)
- リョケ・ユパンキ (1290年)
- ルドルフ2世 (オーストリア公) (1290年没)
- マグヌス3世 (スウェーデン王) (1290年没)
- Guido of Siena (1290年)
同じ地域に関係する人物
- ギヤースッディーン・トゥグルク2世 (1389年没)
- ムハンマド・シャー (ムガル皇帝) (1748年没)
- アーラムギール2世 (1759年没)
- ジャワハルラール・ネルー (1964年没)
- シャムスッディーン・カユーマルス (1290年没)