伝記
マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、共和政ローマ末期の元老院議員で、紀元前51年の執政官である。生年は紀元前94年ごろ、あるいは95年ごろとされ、クラウディウス氏族のマルケッルス家に属した。父は紀元前91年にアエディリスを務めた同名の人物で、兄(弟)にあたるガイウス・クラウディウス・マルケッルスは紀元前49年の執政官、従兄弟のガイウスは紀元前50年の執政官になった。オプティマテス(閥族派)に連なり、キケロや小カトーとも結びつきがあった。ポンペイウスとカエサルが争う時代を生きた人物である。
経歴は紀元前64年の財務官から始まり、このとき小カトーと同僚になった。紀元前63年、キケロが執政官としてカティリナの陰謀に対処していたころには、陰謀を告発する書簡をキケロに届ける場に居合わせたとされ、匿名の書簡を受け取ってキケロに渡し、警戒を促したともいわれる。紀元前56年には、プブリウス・クロディウス・プルケルとともに高等アエディリスを務めた。クロディウスがミロに暴力を向けると、マルケッルスはキケロに協力してミロを守り、のちにクロディウスの死をめぐってミロが訴えられたときにも弁護に動いた。紀元前54年には法務官を務め、同じ年にマルクス・アエミリウス・スカウルスの弁護人の一人にもなった。スカウルスは紀元前115年の執政官と同名の人物の子である。
紀元前52年の末に翌年の執政官に選ばれ、セルウィウス・スルピキウス・ルフスと同僚となった。就任するとすぐ、ガリアを治めるカエサルの後任を決めるよう元老院に提案した。7月には、カエサルが建てた植民市ノウム・コムムの住民を杖で打たせた。市民は杖で打たれないため、この行為はカエサルが与えたラテン権を認めず、住民をローマ市民とみなさないという意思表示だった。ところがポンペイウスは、カエサルの属州統治権の期限である紀元前49年3月まで待つ姿勢をとり、即時解任を求めるマルケッルスの案を公には退けた。9月30日にはポンペイウス派に好意的な新しい執政官が選ばれ、マルケッルスはこの議論を翌年3月1日まで延ばす決議を求めたが、その後は任期の終わりまで職務から手を引いたという。
紀元前50年にポンペイウスとカエサルの決裂が迫ると、ポンペイウス派をなだめ、護民官に拒否権を取り下げさせるよう元老院議員に促した。紀元前49年初めには兵の徴募の必要を説いた。内戦が始まるとローマを離れ、最も早くポンペイウスのもとへ向かった者の一人としてエピルスに赴いた。紀元前48年8月のファルサロスの戦いでポンペイウス側が敗れると、戦いをやめてレスボス島のミュティレネに自ら退いた。そこで弁論術を磨き、ペルガモンのクラティッポスに学んで哲学にも親しんだ。
カエサルへの赦免は、元老院の求めとキケロの働きかけ、さらに従兄弟ガイウスの嘆願によって進んだ。紀元前46年に赦され、キケロは感謝の演説「マルケッルス弁護」を行った。キケロの知らせへのマルケッルスの返信は今も残り、冷ややかな調子だとされる。それでも帰国の途に就き、紀元前45年5月、船でローマへ向かう前後にピレウスで、随行者の一人に殺された。犯人はプブリウス・マギウス・キロンとされ、個人的ないさかいが原因とも、カエサルの指図だったとも噂された。同僚だったスルピキウスが葬儀を営み、アテナイで葬られ、アカデメイアの地に市の費用で記念碑が建てられたという。
同じ年に亡くなった人物
- Mithridates I of the Bosporus (紀元前45)
- Sextus Julius Caesar (紀元前45)
- ニギディウス・フィグルス (紀元前45年没)
- Publius Cornelius Sulla (紀元前45)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス (紀元前45年の補充執政官) (紀元前45年没)
同じ地域に関係する人物
- クレオポン (紀元前404)
- フィロセイ (1589年没)
- コンスタンティノス・ドキシアディス (1975年没)
- オノマクリトス (紀元前480年没)
- Kitsos Tzavelas (1855年没)