HISTORICAL PERSON · 1284年没

アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)

カスティーリャ王で、学芸の振興に努めて賢王と呼ばれ、カスティーリャ語散文の創始者ともされる。トレドが学問の中心となった。神聖ローマ皇帝位の請求は失敗し、晩年は次男サンチョに廃位を宣言された。

生涯
1284年没
死亡地
スペイン王国(セビリア県 / セビリア)
出生地
スペイン王国(トレド)
出典
世界地図
スペイン王国(セビリア県)

伝記

アルフォンソ10世は、1221年11月23日にトレドで生まれ、1284年4月4日に没したカスティーリャ王国の国王(在位1252年〜1284年)で、一時は対立ローマ王(ドイツ王)にも選ばれた。フェルナンド3世と最初の王妃ベアトリスの長男であり、母は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の従姉妹にあたる。学芸を振興したため「賢王」の名で知られ、権力の基盤は英知にあると考えて、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ。現在のスペイン語の母体となったカスティーリャ語の確立者の一人とされ、「カスティーリャ語散文の創始者」とも呼ばれる。ただし、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い。

幼時から統治と軍事の教育を受け、1236年から、父が進めるレコンキスタの一環としてコルドバ地方のムスリムの居住地を征服した。1243年にはサンティアゴ騎士団とともにムルシアの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた。1248年に父のセビリア包囲に参加し、翌1249年にアラゴン王ハイメ1世の娘ビオランテと結婚した。1252年に即位すると、アルガルヴェ地方の領有をめぐってポルトガルと争い、庶子ベアトリスをポルトガル王アフォンソ3世に嫁がせて和解した。1262年にはカディスなどの直接支配を狙って占領したため、グラナダのナスル朝との関係が悪化し、ナスル朝が扇動したムデハルの反乱がヘレスやムルシアなどで起こった。彼は騎士団の支援で反乱都市を奪還し、1266年にナスル朝と和約を結び、ムルシアではムスリム住民を追放してキリスト教徒を入植させた。

1250年代初頭からの神聖ローマ帝国の大空位時代には、母の出自を根拠に皇帝位を請求し、1257年にコーンウォール伯リチャードとともにローマ王に選出された。だがハイメ1世は反対し、教皇も破門を示して即位に反対した。1272年にリチャードが没すると、教皇グレゴリウス10世は諸侯にローマ王の選出を要請し、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世が選ばれた。彼の試みは失敗し、注ぎ込んだ資金と労力は王国に損失をもたらした。帝位を求める運動で国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となり、貴族の一部は弟フェリペを擁して反乱を起こした。

1275年、彼が教皇庁に赴いた隙に、マリーン朝の君主がイベリア半島に上陸し、9月にはナスル朝との連合軍がエシハでカスティーリャ軍を破って、義弟のトレド大司教サンチョが戦死した。反乱の鎮圧に奔走した長男の王太子フェルナンドは病死し、王位継承をめぐって国内は分裂した。1282年、次男サンチョ(のちのサンチョ4世)が父の廃位と自らの即位を宣言し、諸都市や聖職者、ポルトガルやアラゴンの支持を得たため、彼はセビリアに追われた。彼はサンチョを廃嫡してマリーン朝に援軍を求めたが、状況は打開できず、1284年にセビリアで没し、セビリア大聖堂に葬られた。

一方で、法と文化の事業は大きい。国王裁判所での使用を目的に作られた『七部法典』は、地方ごとに異なる慣習を統一する役割を持ち、のちのスペインとその植民地の法律にも反映された。ただし公布されたのは1348年になってからである。彼の宮廷では、トレド翻訳学派を後援してアラビア語文献の翻訳が進められ、ラテン語に代えてカスティーリャ語の使用が推進された。宝石の書や天文学の書などが訳され、『スペイン史』と『世界史』の編纂事業も行われ、自ら詩作や作曲も手がけて、400を超える歌謡を集めた『聖母マリアのカンティーガ集』が完成した。

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