HISTORICAL PERSON · 1938年没

スザンヌ・ランラン

第一次世界大戦後の1920年代前半に女子テニス界に君臨したフランスの名選手。テニス競技の確立に貢献し、今も「テニスの女神」として敬愛されている。

生涯
1938年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 16区)
出生地
フランス共和国(16区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

スザンヌ・ランランは、1899年5月24日にパリで生まれたフランスの女子テニス選手で、第一次世界大戦後の1920年代前半の女子テニス界に君臨した名選手である。今もフランスで「テニスの女神」と敬愛される。父シャルルは薬剤師の資格を持つ年金生活者で、母はアナイス。一家は1906年にピカルディ地方に移った。幼い頃のスザンヌはあまりに病弱で、父が健康増進のためテニスを勧めたという。1911年、12歳の少し前に、父から贈られたラケットで、自宅の土のコートで遊び始めた。水泳などもこなす運動好きで、水泳では1919年にフランス王者になった。娘の才能に気づいた父は自ら指導者となり、帽子やハンカチを的にして正確さを磨かせ、体操やクラシックバレエも含む厳しい訓練を課した。15歳の頃には一人前の技量となり、1914年の全仏選手権の混合ダブルスで、マックス・デキュジスと組んで初優勝した。その後は大戦でトーナメントの開催が見送られたが、男性の練習相手と打ち合って力を伸ばした。

出発点は1919年のウィンブルドン初優勝である。決勝では、同大会で過去7度優勝し、40歳になっていたドロテア・ダグラス・チェンバースと対戦し、10-8、4-6、9-7という歴史的な激戦を制した。第2セットを落として弱った娘に、父がコニャックの小瓶を投げ入れ、一口飲ませたという話があり、以後それは試合中の気付けになったという。そこから1923年まで5連覇し、1924年は病気のため4回戦後に棄権して逃したが、1925年に6度目の優勝を果たした。女子ダブルスでもエリザベス・ライアンと組んで1919年から1923年と1925年に優勝している。地元の全仏選手権でも、1920年から1926年に女子シングルス、女子ダブルス、混合ダブルスの3部門を制した。ただし、当時の全仏選手権は1924年まではフランス人選手のみが出場できる大会で、国際大会となったのは1925年からである。そのため、通算6勝は現在の公認記録からは除外されている。

1920年のアントワープ五輪では、女子シングルスと混合ダブルスで金メダルを獲得した。女子シングルス決勝では、イギリスのドロシー・ホルマンに6-3、6-0で圧勝し、混合ダブルスではデキュジスと組んだ。しかし1921年の全米選手権でのモーラ・マロリーとの2回戦は、彼女のテニス人生で最もつらい出来事となった。第1セットを落とし、試合中に咳き込んで泣き出し、続行不可能を宣言して棄権したのである。これが1926年にプロへ転向するまでのアマチュア時代の唯一の敗北で、翌1922年のウィンブルドン決勝ではマロリーに6-2、6-0で雪辱を果たした。1926年2月16日にはカンヌで、同じく無敵だったヘレン・ウィルスと対戦し、4,000人の観客を集めて、6-3、8-6で勝った。

1926年7月、世界最初のプロテニス選手の一人となった。興行としてのプロテニスの創設を目指すスポンサーと契約し、1926年冬から1927年に北アメリカを巡る史上初のプロツアーに参加した。女子プロ第1号となったランランは、メアリー・ブラウンとの試合で38戦全勝だった。その後は南アメリカを旅行し、テニス・スクールも開いた。1938年7月4日、白血病のため39歳で死去した。亡くなる数日前に視力を失っていた。パリ北郊サン=トゥアンの墓地に葬られた。全仏オープンの会場ローラン・ギャロスには、中央コートに隣接する「スザンヌ・ランラン・コート」があり、女子シングルスの優勝カップも彼女の名を冠している。

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