伝記
カール・フォン・オシエツキーは、1889年10月3日、ドイツのハンブルクに生まれたジャーナリスト、平和運動家で、1935年のノーベル平和賞を受賞した。父は上シュレージエン出身のプロテスタントで、弁護士事務所の速記者として働いたが、本人が2歳のときに亡くなった。母ロザリーは敬虔なカトリックで、息子を聖職者にしたいと願っていた。名前につく「フォン」は貴族の血筋を思わせるが、その由来は分かっておらず、本人は冗談まじりに、先祖がポーランド槍騎兵連隊に仕えたためだと説明していたという。実科学校を修了できなかったが、ジャーナリストとして歩み始め、記事の主題は演劇批評から女性問題、初期の自動車の問題まで幅広かった。ヴィルヘルム2世のもとで軍国主義に反対したことから、早くも1913年には平和主義者になったと後に語っている。
同年、英国の植民地官吏の娘でマンチェスター出身の婦人参政権運動家モード・リッチフィールド=ウッズと結婚し、娘ロザリンデが生まれた。第一次世界大戦では本意に反して軍に召集され、戦場の惨状に衝撃を受けて、平和主義への確信をいっそう強めた。戦後の1919年にドイツ平和協会の書記となり、積極的に反戦運動を展開した。共産主義を拒みながら社会民主党も旧体制に妥協的すぎるとする「家なき左翼」の中心人物の一人となり、旧帝政の官僚や司法、軍の人間がそのままヴァイマル共和国を担っていることを、民主主義への忠誠がなく、機会があれば共和国に牙をむくと繰り返し警告した。1923年には、左翼による違法行為には厳罰を科し、右翼の暴力には極めて寛大な判決を下す、ドイツの裁判官の傾向を示す統計的な研究の公表を助けた。
1927年に雑誌『世界展望』の編集に加わり、1920年代の後半には、ドイツがヴェルサイユ条約に違反して空軍を再建し、パイロットを訓練していることを暴く記事を連ねた。1931年、この暴露によって反逆罪などに問われ、18か月の自由刑を宣告されたが、1932年12月に恩赦を受けた。ただし無罪となったとする見方もある。ナチスが政権を掌握すると、1933年の国会議事堂放火事件の後に再び逮捕され、ベルリンのシュパンダウ刑務所で「保護拘置」にされたのち、エスターヴェーゲン強制収容所に送られた。国際赤十字は、逮捕後の過酷な拷問を記録している。
1936年のベルリンオリンピックを前に、病気を理由に収容所から釈放され、前年に受賞が決まっていたノーベル平和賞を、改めて受賞した。ノルウェーへ賞の受領に赴くことは禁じられ、受賞にあたっては、ゲシュタポ立ち会いのもとで「軍備競争は狂気だ」と信念を述べたという。この授賞にはナチズム批判の明確な意図があったため、ヒトラー政権はその後、ドイツ人がノーベル賞を受けることを禁止した。5年にわたる強制収容所での虐待を経て、1938年5月4日、拘留中にかかった結核のためベルリンの病院で亡くなった。のちに本人の名を冠した平和賞が、国際人権連盟によって創設された。ヒトラー政権は報復として、平和賞の代わりにドイツ芸術科学国家賞を創設したともいう。またノルウェーの征服後には、腹いせにノルウェー・ノーベル委員会の委員全員を逮捕したとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ハンス・クリスチャン・グラム (1938年没)
- マリア (ルーマニア王妃) (1938年没)
- ウィリアム・ウォレス・キャンベル (1938年没)
- ミシェル・ジャコビニ (1938年没)
- ジョン・ヘンリー・ダービーシャー (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- アルトゥール・シェルビウス (1929年没)
- ダニエル・ホドヴィエツキ (1801年没)
- マックス・リーバーマン (1935年没)
- アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム (1944年没)
- ルートヴィヒ・トラウベ (1876年没)