HISTORICAL PERSON · 1280年没

アルベルトゥス・マグヌス

13世紀ドイツのドミニコ会士で、全科博士と称された神学者・哲学者。アリストテレス研究や錬金術の試みなど幅広い業績を残し、トマス・アクィナスの師となった。レーゲンスブルク司教も務めた。

生涯
1280年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / ケルン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ラウインゲン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

アルベルトゥス・マグヌスは、1200年頃に生まれ、1280年11月15日にケルンで没した、13世紀ドイツのドミニコ会修道士で、司教、神学者、哲学者である。アリストテレスの広範な注釈や錬金術の実践と検証の試みなど、多岐にわたる分野で業績を残し、「普遍博士」と称される。トマス・アクィナスの師としても知られ、カトリックの聖人で教会博士でもあり、1941年には教皇ピウス12世により自然科学の守護聖人とされた。

生年は明らかでない。1280年の没年と、「約87年の生涯を終えた」との記述から、1193年頃とする説がある一方、1223年頃に16歳の少年として修道会に入ったとする年代記に基づき、1206年か1207年とする説もある。いずれも決定的な根拠を欠き、1200年頃、あるいはそれ以前と推定されるにとどまる。ドイツのシュヴァーベン地方ラウインゲンに生まれ、貴族の子弟とも騎士階級の出ともいわれる。1222年にヴェネツィアとパドヴァで叔父と暮らしていたという記録が最古の情報で、1223年にパドヴァ大学に進み、自由七科に加えて医学を学んだと考えられている。同年にドミニコ会に入会し、ケルンの修道院で修養を積み、司祭に叙階された。

その後は、ドミニコ会の学校で研究と講義に従事し、1236年から1238年にはフライブルクの修道院学校で講師を務めた。1237年、ドミニコ会の指導者だったザクセンのヨルダンの死去に伴う総会で、ドイツ側から後継者として推薦されたが、選ばれるには至らなかった。1243年から約5年間パリ大学に留学して、1245年に神学修士号を取得し、その後3年間教鞭を執った。この時期にアリストテレスやユダヤ・アラビア哲学を研究し、イタリア人学生のトマス・アクィナスを指導した。1248年にケルンへ戻り、のちのケルン大学の前身となる修道会総合学校の創設に関わった。

1254年から1257年にはドミニコ会テウトニカ管区長を務め、教職を離れて管区内の40ほどの修道院をほぼ徒歩だけで巡回したとされる。1260年にはレーゲンスブルク司教に選ばれたが、教区は多額の負債を抱えており、庶民のような紐靴を履いて旅をする質素な暮らしから「紐靴の司教」と呼ばれた。3年後には教皇ウルバヌス4世の許しを得て職を辞したとされる。1264年以降は教壇に復帰し、ヴュルツブルク、ストラスブール、ケルンなどで活動し、1269年頃にケルンの聖十字架ドミニコ会修道院に移って、死去まで同地で過ごした。1274年には第2リヨン公会議に参加し、トマスの死後、その学説がパリ司教によって異端宣告を受けた際には、徒歩でパリに赴いて擁護した。

思想の特徴は、アリストテレス思想の受容に積極的だったことで、フランシスコ会学派のボナヴェントゥラらとは対照をなす。『動物について』全26巻は、最初の19巻がアリストテレスの注釈書で、観察に基づく記述を多く含む。『鉱物書』では自ら錬金術を行ったが、金や銀に似たものができるにすぎないと述べた。1250年の著作でヒ素にも言及し、その発見者とされる。人語を話す人形を作って身の回りの世話をさせたなどの逸話も伝わるが、真偽の疑われる後世の創作と思われる。遺体はケルンに葬られ、1954年以降はドミニコ会の地下聖堂に安置されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物