伝記
ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンは、ギリシアで生まれたフランス人で、第4代アカイア公である。1211年ごろ、母イザベルがギリシアに移り住んだあと、カラマタ城で生まれた。第2代ジョフロワ1世の次子で、第3代ジョフロワ2世の弟にあたり、フランス語に加えてギリシア語も自由に操ったといわれる。兄の治世にはカラマタ男爵領を封土として与えられ、兄がニカイアとの戦いに出ている間は、摂政としてアカイアを治めた。1246年の夏、子のない兄の跡を継いで公となった。
ギヨームは、ニカイアとエピロスが争っているすきを突き、約3年でペロポネソス半島の征服をほぼ成し遂げた。1248年には、1年近い包囲戦の末に、半島最後の拠点だったモネンヴァシアを降伏させた。1249年、山にこもって抵抗するメリング族を抑えるため、山麓の丘にミストラス城を築き、新たに支配下に入ったマニ地方にも「大マニ城」を築いた。居城を巡回して支配を固め、平地の首都アンドルヴィルでは宮廷生活を営み、フランス文化が花開いた。ルイ9世の失敗に終わったエジプト遠征にも加わり、王からはフランス王の貨幣にならった貨幣を発行する権利を与えられた。1255年にはエウボイア島のネグロポンテ領の北の三分の一を求め、ほかの領主たちやアテネ領主ギーらと戦争になったが、1258年5月にアッティカで勝って、相手を降伏させた。
ギヨームは二度、妻に先立たれていた。1258年、三度目の妻として、エピロス専制公ミカエル2世の娘アンナを迎えた。これによりアカイア公国は、エピロスとシチリア王国とともに、ニカイア帝国に対抗する同盟を結ぶことになった。だがこの同盟が転落のきっかけになる。1259年にペラゴニアに集まった同盟軍で、ギヨームは、ミカエル2世の庶子ヨハネス1世ドゥーカスの生まれを嘲笑して対立した。ヨハネスは早々に軍を離れ、残った同盟軍はニカイア軍に大敗した。ギヨームは戦場を逃れたが、農家のわらたばの中に隠れているところを見つかり、捕らえられた。
ギヨームは1259年から1261年まで、ニカイア、ついで東ローマ帝国の首都に戻ったコンスタンティノポリスで囚われの身となった。その間は、妻アンナが、ほかの捕虜になった騎士たちの妻とともにアカイア公国を治めたという。1261年の末、ミストラス、モネンヴァシア、大マニ城、ゲラキの4つの要塞を皇帝ミカエル8世に割譲し、その臣下となることでようやく釈放された(引き渡しは翌1262年)。このとき軍の総司令官の名誉職を与えられた。この割譲は、東ローマが半島を取り戻す足がかりとなった。ギヨームの臣従は教皇によって無効とされ、ギヨームはシチリア王シャルル・ダンジューとの同盟を求めた。1267年5月24日のヴィテルボ協定で、ギヨームはシャルルに臣従し、娘イザベルをシャルルの三男フィリップに嫁がせ、後継ぎの男子がいなかったため、アカイア公国を継がせると定めた。二人に子がないときには、シャルルが継ぐことになった。ギヨームは1278年5月1日、生まれたカラマタ城で亡くなった。娘婿フィリップは前年の1277年に先立っており、アカイア公国はシャルルが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ツィタ・ディ・ルッカ (1278年没)
- ボレスワフ2世ロガトカ (1278年没)
- 端宗 (宋) (1278年没)
- バルニム1世 (ポメラニア公) (1278年没)
- ミツォ・アセン (1278年(推定))
同じ地域に関係する人物
- Abantidas (紀元前250)
- アナクサンドリデス (スパルタ王) (紀元前525年没)
- アギス3世 (紀元前331年没)
- エウダミダス3世 (紀元前228年没)
- マヌイル・カンダクジノス (1380年没)