伝記
マヌイル・カンダクジノスは、東ローマ皇帝ヨアニス6世カンダクジノスの次男で、モレアス専制公領の初代統治者(在位1349年10月25日〜1380年4月10日)である。1326年頃に生まれた。若いころのことはほとんど知られておらず、史料に名が現れるのは1342年からである。この年、父が皇帝を宣言して挙兵すると、16歳で兄マテオスとともに軍団に同行した。翌1343年には、マケドニア西部の都市ヴェリアの行政官に任じられた。当時マヌイルは、東ローマの宮廷に仕えていたギー・ド・リュジニャンの娘イザベルとすでに婚約していたが、父がセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンとの同盟に乗り出すと、ドゥシャンの側近の娘との婚約が計画された。しかし間もなく両者の関係が悪化し、マヌイル自身の希望もあって、最初の婚約者イザベルとの結婚が確定した。
1347年に父が内乱に勝ってコンスタンティノポリスに入ったときも、マヌイルはヴェリアにとどまっていたが、マケドニアを征服したドゥシャンに包囲されて窮地に陥った。辛くも脱出して首都へ帰ると、直後に義兄弟のニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニとともに父から専制公に叙せられ、ギリシア正教に改宗してマリアと改名したイザベルと結婚した。翌1348年のジェノヴァ人との戦争では、首都駐留軍の指揮官を務めた。
大きな転機は1349年のペロポニソス半島への派遣だった。約300人の護衛隊とともに10月25日に半島へ着き、この日がモレアス専制公領の発足の日となった。以後、彼は生涯この半島にとどまった。当時の半島は内乱の影響で無政府状態に陥っており、マヌイルは基礎から再建しなければならなかった。混乱を収め、農民を保護して生産力の回復に努め、都市には減税措置を出して復興を支えた。行政府ミストラスは人口が増えたため、市域を広げて城壁を新設し、城塞都市として整えた。自らの宮殿と、付属の聖ソフィア聖堂も建てた。ミストラスには、やがて首都や周辺から文化人が移り住んだが、その基礎のほとんどはマヌイルが築いたという。反抗的な土着の有力者は、遠い首都から来た彼に敵意を抱き、徒党を組んで何度も反乱を起こしたが、マヌイルは護衛隊の力で退けた。鎮圧にはアルバニア人の傭兵部隊を補助兵力に用いたが、これが半島における最初のアルバニア人の移住だったと考えられている。
1354年に父が廃位されると、ヨアニス5世パレオロゴスは、ペロポニソス半島からもカンダクジノス家の勢力を追い出そうとした。翌1355年、アサン兄弟のミハイルとアンドレアスを後任の行政官として送り、マヌイルに反抗心を抱く有力者もこれに同調したが、マヌイルは再び実力で反対勢力を打ち破り、ヨアニス5世に自分の地位を承認させた。1357年に兄マテオスが帝位を退いて半島に隠退する際には、マヌイルと兄の交代がうわさされて緊張が生じたが、父の説得で和解し、1361年に兄とその家族を受け入れた。1363年には、ラテン人勢力と同盟し、トルコ人と結んだカタルーニャ・アテネ公国軍をメガラの海戦で破った。その後のアカイア公国の継承者争いでは、妻の親族であるリュジニャン家の候補者を支援した。
マヌイルは1380年4月10日にミストラスで亡くなり、自らが建てた聖ソフィア聖堂に葬られた。妻との間に子はなく、マリアは義兄マテオスに専制公領の統治を託してキプロス王国へ去った。マヌイル自身に著作はないが、高い教養を持ち、文化人との交流も盛んで、当時の文化人の一人は若き日の彼を「殆ど全ての徳を備えた、理想的な君主」と称賛している。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル5世 (フランス王) (1380年没)
- ベルトラン・デュ・ゲクラン (1380年没)
- 光明天皇 (1380年没)
- Jan Ocko of Vlasim (1380年)
- エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ (1380年没)
同じ地域に関係する人物
- Lastheneia of Mantinea (紀元前400)
- リュクルゴス (スパルタ王) (紀元前210年没)
- アギス3世 (紀元前331年没)
- ディオゲネス (犬儒学派) (紀元前323年没)
- マテオス・カンダクジノス (1383年没)