HISTORICAL PERSON · 1272年没

エンツォ (サルデーニャ王)

皇帝フリードリヒ2世の庶子で若鷹と呼ばれ、サルデーニャ王を自称した。ギベリンの指導者として戦い、1249年にボローニャの捕虜となったが、獄中でも詩を吟じ続け、王として葬られた。

生涯
1272年没
死亡地
イタリア共和国(ボローニャ県 / ボローニャ)
出生地
イタリア共和国(クレモナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ボローニャ県)

伝記

エンツォは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子で、サルデーニャ王と呼ばれた人物である。エンツィオとも表記され、生まれた年は1220年とも1225年ともいわれる。母はシュヴァーベンの貴族ウルスリンゲン家のアデライデという女性で、異母兄にハインリヒ7世とコンラート4世、異母弟にアンティオキア公フリードリヒ3世とマンフレーディがいる。父と同じく鷹狩りを好み、そのためファルコネッロ(若鷹)と呼ばれたとも、勇気と行動力をたたえられたためともいう。皇帝の子供たちのなかで最も父に似た容姿であるとされ、フリードリヒ自身もエンツォが自分と瓜二つだと述べた。若いころ、エンツォはパレルモの宮廷で数年を過ごした。

1238年10月、父によってクレモナで騎士に叙された。このころ、ジェノヴァのドーリア家が、サルデーニャをピサの支配から守るため、皇帝を説いてエンツォを、前の領主ウバルド・ヴィスコンティの未亡人でトッレの公女アデラシアと結婚させた。この結婚で、エンツォはサルデーニャ北部のログドーロとガッルーラの二つの領域を得る立場となった。1239年7月にはロンバルディアの帝国総代理に任じられ、サルデーニャを離れたまま二度と戻らなかった。同じ年に父が破門されると、教皇との戦争で重要な役割を果たした。1241年には、ティレニア海のジリオ島沖の戦いで教皇側の艦隊を捕らえ、5月にはメロリアでジェノヴァの艦隊を破って多くの戦利品を得た。ミラノ軍との小競り合いで捕らえられたこともあるが、まもなく釈放された。1243年ごろからはサルデーニャ王を称したが、称号は1238年に与えられたともいわれる。この結婚によるサルデーニャの領有は、帝国と教皇の対立を深めた。1245年のリヨン公会議で父の破門が確認されたあと、父はエンツォをイタリアにおける自身の代理人とし、エンツォはヴェローナのエッチェリーノ3世・ダ・ロマーノとともに反皇帝派と戦った。アデラシアとの結婚は1245年か1246年に無効とされ、1247年にはパルマの包囲戦に加わったが、成功しなかった。

1249年にエッチェリーノの姪と再婚した。結婚式のあと、ボローニャの攻撃を受けていたモデナの救援に向かったが、行軍中の5月26日にフォッサルタの戦いでボローニャ軍の奇襲を受け、側近とともに捕らえられた。ボローニャには金の鎖でつながれて馬にまたがって入ったと伝えられる。父は人質の交換や身代金を提案したが、ボローニャ側は拒んだ。エンツォは大広間を与えられ、書簡や面会の自由も認められたが、夜は広間の中央にある鉄の牢に入った。資金を使い果たしたあとは、ボローニャが生活費を負担した。のちにこの建物は、彼の名にちなんでレ・エンツォ宮と呼ばれた。伝承では、教養ある若いボローニャの市民がたびたび訪れて詩を吟じ、看守たちを感動させた。エンツォ自身も詩人として知られ、獄中で詩をつくり続け、二つのカンツォーネと一つのソネットが残る。庶子が4人あり、うち3人は獄中に生まれた。

1270年にエンツォは脱獄を試み、樽職人を買収して空き樽に隠れた。街路まで出たものの、樽の栓から髪がはみ出して発覚し、監視はいっそう厳しくなった。エンツォは1272年3月14日に没し、ボローニャ市民によって王にふさわしい葬儀が営まれた。遺体は、サン・ドメニコ教会に埋葬された。獄中の生活は22年以上に及んだ。

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