伝記
ルイジ・ピランデルロは、1867年6月28日、シチリア島アグリジェント郊外の小村カオスに生まれたイタリアの劇作家、小説家、詩人である。1934年にノーベル文学賞を受けた。ルイージ・ピランデッロとも表記される。生地のカオスは、日本で出た短編集『カオス・シチリア物語』の題にもなっている。父ステファノは硫黄産業に従事する裕福な家系の出身で、母カテリナもアグリジェントの裕福な市民階級の家の子孫だった。初等教育は自宅で受け、1880年に移り住んだパレルモの高等学校に通った。1885年にローマ大学に入ったが、教師との衝突によりドイツのボン大学へ移り、そこで言語学を専攻して哲学の学位を得た。ゲーテの『ローマ悲歌』の翻訳を携えてイタリアに戻ると、文学で生活していこうと考えた。
1894年、父の紹介で、父の商売仲間の娘アントニエッタ・ポルトゥラーノと結婚した。妻は修道院で教育を受けたおとなしい娘だったが、ピランデルロとは全く面識がなかった。一家はローマに移り住み、二人の息子と一人の娘が生まれた。ところが1904年に硫黄鉱山が洪水に見舞われて父が破産し、持参金の多くを投資していたアントニエッタは精神錯乱を起こした。ピランデルロはローマの女子高等学校で文学の教師として働いたが、家庭では理不尽な狂気の発作を繰り返す妻に対し、常にもう一人の自分を用意しておかなければならなかったという。妻は精神病院に入院し、1959年に亡くなった。同じ1904年に、小説『生きていたパスカル』を発表している。
1914年に第一次世界大戦が始まると、二人の息子も戦場に行き、長男はオーストリア軍の捕虜となり、次男は戦線で疫病にかかった。一人娘は自殺未遂を起こした。1915年には母が亡くなった。戦争が終わると息子たちは無事に帰還した。ピランデルロは演劇に関心を持つようになり、戯曲を発表して評判を呼び、有名になっていった。戯曲の作品表には、すでに1910年の『万力』『シチリアのレモンの木』、1916年の『考えろ、ジャコミーノ!』『リオラ』、1917年の『御意にまかす』『シナの帽子』『瓶』が並ぶ。詩集も複数あり、小説や短編にも力を注いだ。そして1921年に、代表作となる『作者を探す六人の登場人物』を発表した。続いて1922年に『エンリコ四世』、1924年に『各人各説』、1923年に『口もとの花』、1930年に『未知の女』『本日は即興劇を』などを書いた。
1925年には長男がローマに芸術座を設立し、ピランデルロはその指導者となって、ローマを近代劇の中心にしようと運動した。劇団はヨーロッパ、アメリカ、南米などへ巡業したが、商業的には失敗し、芸術座は1929年に解散した。1934年にノーベル文学賞を受賞した。晩年も執筆を続け、絶筆となった『山の巨人たち』は未完のまま、死後の1937年に出た。1936年12月、ローマで死去した。69歳であった。日本でも戦前から翻訳が出ており、『ピランデルロ名作集』(白水社、1958年)、長編『ひとりは誰でもなく,また十万人』(1972年)、短編集『月を見つけたチャウラ』(2012年)など、戯曲も小説も数多く訳されて広く紹介されてきた。
同じ年に亡くなった人物
- ムンシー・プレームチャンド (1936年没)
- モーリッツ・シュリック (1936年没)
- ウィリアム・ミッチェル (1936年没)
- ジャンヌ・パキャン (1936年没)
- ブルーノ・ハウプトマン (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- メフメト・サイード・ハリム・パシャ (1921年没)
- フランシスコ・ボルハ (1572年没)
- カイウス (ローマ教皇) (296年没)
- ジュゼッペ・フェラーラ (2016年没)
- チェーザレ・ザヴァッティーニ (1989年没)