伝記
フリードリッヒ・アルベルト・モーリッツ・シュリックは、1882年4月14日にベルリンの富裕な家庭に生まれた、ドイツの哲学者、物理学者である。論理実証主義とウィーン学団の創立者として知られる。父はエルンスト・アルベルト・シュリック、母はアグネス・アルントといった。ハイデルベルク、ローザンヌを経て、ベルリン大学でマックス・プランクのもとに物理学を学び、1904年に学位論文「非均質媒質中における光の反射について」を完成させた。ゲッティンゲンで1年間私講師を務めたのち、チューリヒで哲学研究に転向し、1908年に小論「生活の知恵」を発表した。これは、幸福こそが倫理の最高の目的だという幸福主義の理論に関するものであった。1910年には評論「近代論理学による真理の本性」を発表している。
その後、美学に関する評論を何本か発表したが、すぐに関心は認識論、科学哲学、さらに科学に関するより一般的な問題へと移った。1915年には、わずか10年前の話題だったアインシュタインの特殊相対性理論に関する論文を発表して有名になった。また「近代物理学における空間と時間」では、一般相対性理論がアインシュタインによって非ユークリッド幾何学を採用していることを説明するため、アンリ・ポアンカレの幾何学的規約主義を適用し、自身の初期の成果を拡張した。ロストックとキールでの職務を経て、1922年にウィーン大学で、かつてルートヴィヒ・ボルツマンやエルンスト・マッハが行っていた自然哲学の講義を受け持つことになった。
ウィーンに来た彼は、毎週木曜日に化学部の学部舎で科学における哲学的な話題を議論していた科学者と哲学者の集団を率いるよう請われた。初期の成員には数学者ハンス・ハーンがおり、1、2年のうちにルドルフ・カルナップ、ハーバート・ファイグル、クルト・ゲーデル、オットー・ノイラートらが加わった。彼らは初めエルンスト・マッハ協会と自称し、その後はウィーン学団として知られる。1925年から1926年には、フレーゲやラッセル、ヴィトゲンシュタインらによる数学基礎論の研究を議論し、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の研究に少なからぬ時間を費やした。やがてヴィトゲンシュタイン本人もシュリックらと会って議論することを承知し、シュリックの影響を通じて、哲学の分野から離れて10年ほどたって哲学に戻ってきた。のちに学団の他の成員と会わなくなってからも、シュリックとは書簡で議論を続けたという。
1918年から1925年には『知識の一般理論』を研究した。この書は、偽物の「アプリオリ」な知識に反対する合理的推論における最大の成果とされる。1926年から1930年にかけて『科学としての倫理学』を書き上げ、哲学の存続できる分野としての倫理学を扱って、追随する学団の成員を驚かせた。
ドイツとオーストリアでナチズムが興隆すると、多くの学団の成員がアメリカ合衆国やイギリスへ去ったが、シュリックはウィーン大学に残った。1936年6月22日、講義のために大学へ行くと、教室への階段で以前の学生ヨハン・ネルベックに拳銃で撃たれて死亡した。ネルベックは、シュリックの哲学が自分の倫理的自制を妨げたと主張した。別の説明では、女学生への失恋による嫉妬から、シュリックを恋のライバルとみる妄想に導かれたのだという。ネルベックは有罪となったが、事件は大きな反響を呼ぶスキャンダルとなり、ナショナリズムや反ユダヤ主義的な感情が脚光を浴びた。シュリックは実際にはユダヤ人ではなかった。
同じ年に亡くなった人物
- 胡漢民 (1936年没)
- ウィリアム・アダムソン (1936年没)
- グリゴーリー・グルム=グルジマイロ (1936年没)
- カール・ピアソン (1936年没)
- ヤーン・レヴォスラフ・ベラ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァルター・ゼーマン (1991年没)
- アントニオ・カルダーラ (1736年没)
- アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン (1822年没)
- レオポルト・フィッツィンガー (1884年没)
- フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1809年没)