HISTORICAL PERSON · 紀元前62年没

ルキウス・セルギウス・カティリナ

スッラの下で頭角を現し、紀元前68年に法務官としてアフリカを担当した。執政官選挙に落選するとローマ転覆を狙う陰謀を起こし、キケロの弾劾演説を受けた。その事件はサッルスティウスの戦記に記された。

生涯
紀元前62年没
死亡地
イタリア共和国(ピストイア県 / ピストイア)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ピストイア県)

伝記

ルキウス・セルギウス・カティリナは、紀元前108年頃に生まれた共和政ローマ後期の政務官である。出身のセルギウス氏族はアイネイアースとともにイタリアへ来たと伝えられる古い家柄で、直近の先祖に執政官はいないものの、歴史家サッルスティウスは彼をノビレス(高貴な生まれ)としている。紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの配下として記録に現れ、おそらく同盟市戦争を戦ったのち、ルキウス・コルネリウス・スッラのもとで副官となり、反対派を殺す処罰者名簿の粛清に加わった。マリウス家の養子となった人物の首を取ってスッラに届けたとも、妻や兄弟、親戚まで殺したともいわれ、女性に溺れて邪魔になった一人息子を毒殺したという話も残る。ただしこれらは後世の伝聞である。紀元前68年にはプラエトルとしてアフリカ属州を担当し、紀元前66年まで同地に滞在した。

帰国後、執政官選挙に出ようとしたが、属州民が元老院で不満を訴えたため立候補は認められなかった。サッルスティウスによれば、紀元前66年12月、選挙違反で当選を取り消されたアウトロニウスらと、翌年の元旦に両執政官を襲う陰謀を企てたが、事が漏れて頓挫したという。背後にクラッススやカエサルがいたとする説もある。ただ、この第一次陰謀に彼が関与した信憑性は低いという指摘もある。紀元前65年には属州での不法所得を理由に訴えられ、キケロの弁護を受けた。元老院議員の審判人は有罪としたが、他の身分の審判人によって無罪となった。翌紀元前64年の選挙には立候補できたが、キケロら計7人の候補が乱立するなかで落選し、キケロとガイウス・アントニウス・ヒュブリダが当選した。

紀元前63年にも彼は執政官に立候補し、当時問題となっていた債務の帳消しを公約に掲げて、スッラの退役軍人らの支持を集めた。カッシウス・ディオは、選挙当日にキケロを殺そうと計画したが、胸当てを着けて現れたキケロを見て人々が彼に反感を抱いたと伝える。だがまたも落選すると、反乱を企てた。共謀者マンリウスがエトルリアで兵を集め始め、10月27日の蜂起が予定されていた。サッルスティウスは、東方遠征中のポンペイウスの軍団がイタリアにいないことが成功の見込みを高めたと記す。元老院も最終決議を行って、執政官キケロらに治安の維持を命じた。11月8日、キケロはユッピテル・スタトル神殿で開いた元老院に出席したカティリナを弾劾する演説を行った。ローマを離れた彼はエトルリアでマンリウスと合流し、元老院は彼らを公敵と宣言して、ヒュブリダに追討を命じた。

市内の共謀者5人は12月3日にキケロに逮捕された。12月5日の元老院では、まず予定執政官シラヌスが死刑を主張して賛同が広がったが、予定プラエトルのカエサルが裁判なしの処刑の違法性を指摘して地方への隔離を提案した。しかし小カトが強硬に死刑を主張して議員のほぼ全員が賛同し、共謀者はキケロの命令で処刑された。

その間に彼は2つの軍団を召集して最大2万の兵を集めたが、処刑が伝わると数は減った。紀元前62年1月、ガリアへ向かおうとしたがメテッルス・ケレルに阻まれ、背後から迫るヒュブリダの軍を迎え撃った。兵士たちの前で演説した彼は最前列で奮戦し、勝ち目がないと見るや敵陣に突入して散り、共に戦った3000の兵も逃げずに戦死したという。この最期から、キケロが描いたほどの悪漢だったのか疑問も呈されている。彼の物語は後世の作家を刺激し、ベン・ジョンソンやヴォルテール、イプセンが『カティリーナ』などの作品にした。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物