伝記
ガレアッツォ1世・ヴィスコンティは、十四世紀前半にミラノを治めたヴィスコンティ家の僭主である。一二七七年一月二十一日に、マッテーオ1世・ヴィスコンティとボーナコーサ・ボッリの子として生まれた。この日は、一族のオットー・ヴィスコンティが、グエルフ派のデッラ・トッレ家の軍にデシオで勝利した日にあたる。一二九八年にはノヴァーラの行政官に任じられたが、務めたのは翌年までであった。
一三〇〇年六月、オビッツォ2世・デステの娘ベアトリーチェと結婚した。彼女はピサのニーノ・ヴィスコンティの未亡人であった。同じ年に父がガレアッツォをミラノの統治に加わらせたが、デッラ・トッレ家とグエルフ派によって、ヴィスコンティ家はミラノから追放された。マッテーオがモッテッジャーナのスカラ家のもとに身を寄せる一方、ガレアッツォはフェラーラのエステ家のもとで過ごし、子供たちもそこで生まれた。一三一一年に父が皇帝ハインリヒ7世の助けでミラノの支配を取り戻すと、ガレアッツォはピアチェンツァの領主に任じられた。その後はデッラ・トッレ家の軍との戦いが続いた。一三一七年からは、教皇が一族を破門して異端の疑いをかけた、破門者たちの戦争が始まった。
一三二一年にはクレマとクレモナを包囲し、十一月にはピアチェンツァとローディのギベリン派の軍を破った。一三二二年六月、七十歳になって疲れた父は、ガレアッツォを呼んでミラノの統治を譲り、引退した。ガレアッツォはピアチェンツァの統治を妻と息子のアッツォーネに任せた。マッテーオは一か月後に世を去り、ガレアッツォは一年の任期で「民の隊長」に選ばれた。ところが十一月、従弟ロドリージオが起こした蜂起のため、ミラノを去らねばならなくなった。彼はローディに逃れ、都市の統治はブルゴーニュ人の隊長ジャン・ド・シャティヨンに委ねられた。デッラ・トッレ家の復帰を恐れたロドリージオが十二月にガレアッツォを呼び戻し、三日間の略奪と混乱を経て、彼は民衆の集会でミラノの領主と宣言された。
一三二三年三月には、教皇ヨハネス22世から破門された。ミラノでは不穏な空気が広がり、ガレアッツォの権威は傷ついたが、皇帝ルートヴィヒ4世の支援を受けて、彼は自分に差し向けられた教皇の軍を打ち破った。しかし一三二七年、弟のマルコが、教皇に通じていると皇帝にガレアッツォを訴えた。皇帝はガレアッツォを廃し、モンツァの牢に入れた。ほかの弟のジョヴァンニとルキーノも同じ牢に入れられた。弟のステーファノが暗殺された事件の疑いをかけられたためである。
ガレアッツォは一三二八年三月に釈放されると、当時のギベリン派の首領カストルッチョ・カストラカーニを頼ってルッカへ向かった。しかし数か月後の八月六日、トスカーナのペーシャで世を去った。息子のアッツォーネが跡を継いでミラノを治め、娘のリッチャルダはサルッツォ侯トンマーゾ2世の妻となった。ガレアッツォには庶出の娘カテリーナもおり、ジェノヴァ人のアラオーネ・スピノラに嫁いだ。妻ベアトリーチェは夫より長く生き、一三三四年に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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