伝記
アニー・ベサントは、1847年10月1日、ロンドンのクラパムでアイルランド系の中流家庭に生まれた。のちに神智学徒、女性の権利の活動家、作家、演説家、アイルランドとインドの自治の支持者として知られた人物である。自分がアイルランド人であることを常に誇りとし、それが後年のアイルランド自治運動支援の動機になった。5歳で父を亡くした一家はほとんど文無しで、母は寄宿学校の生徒向けの下宿を営んで家計を支えたが、アニーまでは養えなかった。そこで友人のエレン・マリアットがアニーを引き取り、優れた教育を受けさせた。アニーはここで社会への義務や、自立した女性のなすべきことへの強い意識を身につけ、ヨーロッパ各地を旅して、終生失わないカトリック的な心構えも身につけたという。
1867年、19歳のとき、国教会福音主義派の聖職者フランク・ベサントと結婚した。夫は文学者ウォルター・ベサントの弟である。夫婦は2人の子をもうけたが、結婚は幸せではなかった。既婚女性には財産を所有する権利がなく、アニーが児童向けの短編や論文で得た収入はすべて夫のものになったうえ、農園労働者を支援する彼女に対し、夫は地主側のトーリー党の立場だった。アニーが聖餐への参加を拒むと決定的な破局となり、娘を連れてロンドンに戻った。やがて復縁を考えて夫のもとへ行ったが無理だと悟り、離婚はあり得ないとする夫のため、生涯「ベサント夫人」のままだった。2人の子の単独親権は夫にあった。
その後、バークベック・カレッジで学び、教会を攻撃する文章を書き始めた。英国世俗協会の機関紙にコラムを書いて週給を得るようになり、才能ある演説家として、国中で進歩・改良・自由を求める講演をした。協会の指導者チャールズ・ブラッドローとは長く親しく、共に多くの問題に取り組んだ。1877年に、労働者階級の家庭が子どもの数を決められるようになることを説く避妊の本を二人で出版して逮捕され、有罪判決を受けたが、自由党系の新聞が支持に回り、刑務所行きは見送られて訴訟は取り下げられた。しかしこの件で、夫が彼女は子どもを育てるのにふさわしくないと法廷を説得し、娘たちを失うことになった。ブラッドローは1881年に議員に当選した。
1880年代には社会主義に接近し、ジョージ・バーナード・ショーと親しくなり、その保証でフェビアン協会に入った。1887年11月13日、ロンドンの失業者による集会に演説者として臨んだが、警察との衝突で死者を含む多数の負傷者が出た。のちに「血の日曜日事件」と呼ばれ、アニーは非難と称賛を共に浴びた。1888年にはブライアント&メイ社のマッチ工場の少女たちのストライキを指導し、低賃金や燐による職業病に苦しむ彼女たちのために委員会を設立した。1週間ほどで会社に要求を呑ませ、正式な組合の設立も助けた。同年、社会民主連盟に加入し、ロンドン学務委員会に立候補して、15,000票を得てタワー・ハムレッツ区でトップ当選し、小学校での定期健康診断や無償の給食を導入した。
その後は神智学協会の第2代会長となり、英国フリーメイソンの国際組織ル・ドロワ・ユメンを創設した。1917年にはインド国民会議派の議長を務め、1933年9月20日、インドのアディヤールで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- Adli Yakan (1933年没)
- アントニーン・シュヴェフラ (1933年没)
- 堺利彦 (1933年没)
- パット・サリヴァン (1933年没)
- コンスタンディノス・カヴァフィス (1933年没)
同じ地域に関係する人物
- シルク・スミター (1996年没)
- ロバート・コールドウェル (1891年没)
- Subramanya Bharathi (1921年没)
- R・K・ナーラーヤン (2001年没)
- ワズィール・アリー・ハーン (1817年没)