伝記
コンスタンディノス・カヴァフィスは、1863年4月29日、当時オスマン帝国領だったエジプトのアレクサンドリアに生まれたギリシャ人の詩人である。両親は1855年にこの地へ移り住んだギリシャ人で、イスタンブールのファナリオティスと呼ばれるギリシャ人共同体の出身であった。父は裕福な貿易商で、かつて英国に暮らしたことがあり、ギリシャと英国の二つの国籍を持っていた。母は宝石商の娘で、夫婦には9人の子がいて、コンスタンディノスは年上の兄が6人いる末の弟だった。正教会の洗礼を受けた。
父が急死した後、一家は一時イギリスに移り、リヴァプールとロンドンを往き来して暮らしたが、不況で家業を畳むことになり、1877年にアレクサンドリアに戻った。彼は、ギリシャ人の学校ヘルメスに通って最初の親友を得、18歳のころには自分の歴史事典の編纂を始めている。1882年、英仏によるエジプト支配に反対する反乱がアレクサンドリアで起き、市は砲撃され、ラムレにあった一家の住まいは焼けた。家族はいったんイスタンブールの母方の祖父の家に身を寄せた。19歳のカヴァフィスは、ここで初めて多くの親戚と触れ合い、自分の家系を調べ、より広いギリシャ世界の中で自分を定義しようと試みた。ジャーナリズムと政治の道をめざして準備を進め、詩作にも初めて体系的に取り組んだ。
家産が傾いたこともあって、1885年にアレクサンドリアに戻り、死ぬまでこの町で暮らした。旅行などで出ることはあっても、この地を離れて住むことはなかった。まず新聞『テレグラフォス』の通信員となり、のち株式取引所で働いたあと、英国の管理下にあったエジプト政庁の公共事業省に、外国籍のため臨時職員として雇われた。毎年契約を更新しながら、勤勉に30年間勤めたという。この間に親しい友人や親族が相次いで亡くなったことが、彼に深い影を落とした。1891年から1904年にかけては、詩を一枚刷りや自家製本の形にして、親しい友人たちにだけ配った。評価はおもにアレクサンドリアのギリシャ人社会の中にとどまったが、1903年にはグレゴリオス・クセノプロスの好意的な批評でギリシャ本土の文学界に紹介された。作風が当時の主流の詩と大きく違ったため、評価はなかなか得られなかった。
作品は、ギリシャの文学や歴史上の人物を、簡潔だが暗示に富んだ文体で描き、不確かな未来、官能の喜び、同性愛、故郷への郷愁などを主題にした。主要な詩の多くは40歳を過ぎてから書かれている。1919年から1922年のギリシャ・トルコ戦争でギリシャが敗れた後は、虚無的な若い世代の詩人たちがその作品に霊感を得た。1922年に公共事業省の高い地位を辞し、これを解放と呼んで、詩作の完成に専念した。1926年には、ギリシャ国家から不死鳥勲章の銀メダルを贈られた。1933年4月29日、70歳の誕生日に喉頭癌のため没した。生前に詩集の形では出版されず、作品が初めてまとめられたのは1935年である。小説家E・M・フォースターが1923年に英語圏へ紹介し、没後に評価は高まり、日本でも中井久夫の訳による全詩集が読売文学賞を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- 陳炯明 (1933年没)
- フリードリッヒ・ザンデル (1933年没)
- ジョゼ・マリョア (1933年没)
- Andreas Franz Fruhwirth (1933年没)
- アポリナリー・ヴァスネツォフ (1933年没)
同じ地域に関係する人物
- Rhianus (紀元前300)
- セレウコス7世 (紀元前58年没)
- アレクサンドリアのキュリロス (444年没)
- アレクサンドリアのカタリナ (305年没)
- チモカリス (紀元前260年没)