HISTORICAL PERSON · 1406年没

ロバート3世 (スコットランド王)

スコットランド王。若い頃の馬による事故で障害を負い、実権は弟のオールバニ公が握った。息子ジェームズがイングランドに捕らえられたと聞き嘆いた。

生涯
1406年没
死亡地
イギリス連邦(アーガイル・アンド・ビュート / ロスシー城)
出生地
イギリス連邦(スクーン宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(アーガイル・アンド・ビュート)

伝記

ロバート3世は、1337年8月14日に生まれたスコットランド王で、在位は1390年から1406年までである。即位前の名はジョン・ステュアートといい、ロバート2世の長男として生まれた。両親は1336年に結婚していたが、その手続きが教会法に基づかないと批判されたため、少年時代は庶子として扱われた。1349年になってようやく正式な結婚とされ、ジョンは嫡出子と認められた。1360年代前半には、父や有力貴族とともに大叔父の国王デイヴィッド2世に対する反乱に加わったが、まもなく服従したと伝えられる。1367年にジョン・ドラモンド卿の娘アナベラと結婚し、二人の間には7人の子が生まれた。1368年にはデイヴィッド2世からキャリック伯に叙された。

ところが1387年に馬に蹴られて重傷を負い、回復に数年かかったうえに障害が残った。おそらくこの事故が原因で、政治の実権は弟のファイフ伯ロバートに移っていった。弟は王太子である兄を差し置いて「王国の守護者」の地位に就いた。1390年5月に父ロバート2世が没するとロバート3世として王位を継いだが、庶子として扱われた過去が問題となり、スクーンでの戴冠式は3カ月以上たった同年8月に行われた。即位にあたって洗礼名のジョンをロバートに改めたのは、ジョン2世を名乗れば、評判のよくないジョン・ベイリャルを連想させ、ロバート1世以来の王権が弱まると恐れたためとされる。障害はあっても何度かは議会に臨んだと考えられるが、実権は弟が握り、国王は名目上の存在と見られた。

それでも完全に名目だけの国王に甘んじたわけではなく、1398年にスコットランド初の公爵位であるロスシー公を創設して長男デイヴィッドに与え、同じ年に弟をオールバニ公に叙して権力の分散を図った。1399年には、自身の障害とイングランドとの衝突を理由に、デイヴィッドを王国統監として支配権を移した。しかしデイヴィッドは不祥事を重ね、やむなく国王が逮捕令を出し、1401年にオールバニ公がフォークランド宮殿に監禁した。翌1402年3月、ロスシー公は同宮殿で不可解な死を遂げた。国王は弟による暗殺を疑い、議会がオールバニ公を査問する事態となったが、結論は自然死であった。

疑念の晴れない国王は、生き残った三男ジェームズも狙われ、自身の王位も奪われることを恐れ、1406年2月、同盟国フランスの宮廷でジェームズを保護してもらうことにした。だが出港前、ダールトン城に滞在していたジェームズに、オールバニ公が追手を差し向けた。ジェームズは手漕ぎボートで逃れ、フォース湾のバスロックに取り残されて、迎えの船が来るまでの約1カ月を過ごした。その間にオールバニ公はイングランド王に知らせ、フランス行きの妨害が手配された。ジェームズはノーフォーク沖でイングランド勢に捕らえられ、ヘンリー4世のもとへ送られて、以後1424年まで抑留された。相次いで二人の息子を失った国王は深く落胆し、同1406年4月4日にエアシャーのダンドナルド城で没した。遺体は歴代王の埋葬地スクーンではなくペイズリーに葬られ、ジェームズが不在のまま後継と宣言され、オールバニ公が摂政となった。1394年に生まれたこのジェームズは、のちに国王となって1437年に没した。

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