伝記
ジュゼッペ・ペアノは、1858年8月27日、イタリア北西部ピエモンテ州のクーネオ近郊の農場に生まれた数学者・言語学者である。5人きょうだいの2番目で、スピネッタの学校に通ったが、道のりは遠く、冬には暖房用の薪を背負って通う過酷なものだったという。幼い彼の才能に気づいた母方の叔父は、トリノの司教区に勤める司祭で法律家であり、引き取って教育を授けた。1870年ごろにトリノへ移り、リセに学び、1876年に試験の成績が優れていたため奨学金を得てトリノ大学に入学した。当初は工学を志したが数学に進み、エンリコ・ドヴィディオに高等数学を教わり、1877年からはアンジェロ・ジェノッキの微分積分学の講義に強い影響を受けた。1880年に最優等で卒業して数学の学位を得、ドヴィディオの助手を経てジェノッキの助手となる。ジェノッキが健康を損ねたため、2年間は微分積分学の講座を担当した。
その教えるなかで、ペアノはセレの教科書の誤りを反例で示し、研究者としての歩みを始めた。1884年にはジェノッキの講義ノートをもとに最初の主要作品となる微分積分学の教科書を発表した。数年後に論理学を扱った最初の書物を出し、今も使われる和集合・積集合の記法が初めて現れた。1885年にはフリーメイソンのトリノのロッジの長になった記録がある。1887年、トリノの画家の娘カローラ・クロージオと結婚した。1886年から1901年まで王立陸軍士官学校で教え、1889年に自然数を形式的に特徴づけたペアノの公理を発表した。翌1890年にはトリノ大学の教授に就き、同年に空間充填曲線の最初の例であるペアノ曲線を発表して、単位区間と単位正方形の濃度が等しいことを示した。
1890年に数学雑誌を創刊し、1891年からは自ら考案した記法で既知の公式と定理を網羅する「数学の辞典」を目指して『数学公式集』の執筆を始めた。1897年にチューリッヒで開かれた第1回国際数学者会議では論理学の論文を発表した。作業にのめり込み、数式を一行で書くことを求めて印刷が遅れたため、自分で印刷機を買ったほどである。1900年のパリでの会議ではバートランド・ラッセルと出会い、公式集を贈った。ラッセルはその斬新な論理記法に心を打たれ、ペアノとその門弟の著作を研究するため、しばらく表舞台から退いたという。ところが記法の教育に熱中するあまり微分積分学の内容をおろそかにして、1901年に士官学校の職を失った。
1903年、既知のラテン語の語彙を使い、文法の例外を排して学習を容易にした国際補助語、無活用ラテン語を発表した。1908年には公式集の最終巻が出て、4200の公式と定理がこの言語で述べられた。同年、国際語の学会の役員に選ばれ、学会はそれまでのイディオム・ネウトラルを放棄して、無活用ラテン語を採用した。1910年に母が没した後は、教育や教科書の作成、国際補助語の推進に多くの時間を割いた。1925年に微分積分学から補完数学へ教授職を非公式に移し、1931年に正式に認められた。死の前日までトリノ大学で講義を続け、1932年4月20日に心臓発作で没した。
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