伝記
スノッリ・ストゥルルソンは、1178年あるいは1179年に生まれ、1241年9月23日に没したアイスランドの詩人・政治家・歴史家である。ノルウェー王朝の歴史を記した『ヘイムスクリングラ』や、北欧神話を紹介する『エッダ』の著者として知られる。優れた学者である一方、権勢欲や名誉欲の強い野心家でもあったと伝えられる。
父は当時のアイスランドで最も勢力を強めたストゥルラ・ソールザルソンで、スノッリはその末子としてフヴァンムル・イー・ダーリルに生まれた。父が遺産相続をめぐってレイクホルトの神父パールと争った際、パール側に付いたヨーン・ロフツソンが父を懐柔するため、当時3歳のスノッリの養父になると申し出た。父がこれを受け入れ、スノッリは養父のもとで学問の中心の一つであったオッディで学んだ。養父の死後の1199年、ボルグを支配する裕福なベルシの娘ヘルディースと結婚し、1202年にベルシが死ぬとボルグの館へ移った。二人の間には二人の子が生まれたが、結婚生活は破綻して別居した。1206年には神父マグヌスの屋敷に移って財産管理を請け負い、マグヌスの死後はそこを自分の所有として、ボルガル・フィヨルド一帯に広大な領地を持つに至った。1215年には全島議会で法の宣言者に選ばれたが、それを後押しした義兄弟セイムンドとは、スノッリがもっぱら自分の権力の拡大に力を注いだため急速に不仲になった。
1218年から1220年にかけては、スカンディナヴィアへ渡った。主な目的はノルウェー訪問であった。当時のアイスランドは首領たちと教会が争い、ニダロスの大司教から圧力を受けていたうえ、貿易をめぐる騒動で両国の関係も緊張し、アイスランドをノルウェーの統治下へ入れようとする動きがあった。スノッリはノルウェー王ホーコン4世と摂政のスクーリ伯を訪ね、各地の史跡を巡った。これは『ヘイムスクリングラ』の取材のためだったと考えられている。ニダロスではスクーリ公の食客となり、王の従士に加えられ、1220年にはアイスランドの総督に任じられた。帰国後の1222年には、その厚遇への返礼として『韻律一覧』を著してスクーリ公に贈った。しかし、和議をノルウェーに有利に進めると約束しながら実際には動かず、人質として長男を送っただけで終わったため、ホーコン4世の不興を買った。
その後、スノッリは娘を有力者ギツルに嫁がせるなど縁組で地盤を固めようとした。だが1235年、ホーコン4世が甥のストゥルラに総督の地位と引き換えにアイスランドの臣従を働きかけると、ストゥルラはこれに応じ、スノッリと対立した。スノッリは挙兵したものの戦わずに戦場を離れ、味方は惨敗して、1237年にノルウェーへ送られた。ノルウェーではスクーリ公の側と見なされ、1238年に許可なく帰国の途についたため、王の怒りを買った。スクーリ公が敗れて戦死すると、王はギツルにスノッリの捕縛か殺害を命じる密書を送ったとされる。1241年9月22日の夜、レイクホルトの屋敷をギツルらが襲い、地下室に隠れていたスノッリは見つかって殺された。死から21年後の1262年、アイスランドはノルウェーの支配下に置かれ始め、1264年には完全に属国となった。今日に残る著作は少ないが、『エッダ』と『ヘイムスクリングラ』が代表作とされ、『エギルのサガ』も筆致から彼の作ではないかといわれている。
同じ年に亡くなった人物
- コチャン (ポロヴェツ族) (1241年)
- ケレスティヌス4世 (ローマ教皇) (1241年没)
- エレノア・オブ・ブリタニー (1241年没)
- グレゴリウス9世 (ローマ教皇) (1241年没)
- マヌエル・コムネノス・ドゥーカス (1241年没)
同じ地域に関係する人物
- アウルトニ・マグヌッソン (1730年没)