伝記
ヘルマン・フォン・ザルツァは、ドイツ騎士団の第4代総長である。生まれは1165年ごろとも1179年ごろともいわれ、テューリンゲン方伯に仕えるミニステリアーレ(家士)の家の出で、生地はランゲンザルツァだったと思われる。方伯ルートヴィヒ3世とともに、1189年から1191年のアッコン包囲に加わった。この包囲の最中に、騎士団の前身となる野戦病院が設けられている。1197年には皇帝ハインリヒ6世の十字軍に、方伯ヘルマン1世らとともに従い、エルサレム王アモーリー2世の戴冠式に同席した。皇帝が没して十字軍が中止され、アッコンが陥落すると、野戦病院は存立の危機に陥ったが、軍事集団として再建され、1198年にヘルマンはこの騎士団に入った。1209年か1210年に、先代のハインリヒ・フォン・トゥンナのあとを継いで総長となった。
1211年、騎士団はハンガリー王アンドラーシュ2世の求めに応じてトランシルヴァニアのブルツェンラントに移り、クマン人からの防備にあたった。この年から翌年にかけて、ヘルマンは聖職者ヴィルブラントの旅に同行して、パレスチナ、シリア、アルメニア、キプロスをめぐったという。1215年のローマで騎士団の特権を認められ、翌1216年にフリードリヒ2世の宮廷を初めて訪れると、その友人となり参謀となった。1219年には第5回十字軍に加わり、ダミエッタの攻略に貢献してジャン・ド・ブリエンヌからその武勇をたたえられた。1220年にはローマでの皇帝の戴冠に立ち会い、教皇から、白いマントの着用など新たな特権を騎士団のために得た。1224年にはブルツェンラントを教皇の直轄領とするよう教皇ホノリウス3世を説得したが、アンドラーシュは従わず、1225年に騎士団は退去を余儀なくされた。同じ年には、フリードリヒとジャン・ド・ブリエンヌの娘の結婚の取り決めにも関わった。
1225年の冬、マゾフシェ公コンラト1世は、異教のプロイセン人への防備として騎士団を領地に招いた。ヘルマンはハンガリーでの失敗を省みて、皇帝との関係を強め、教皇にも支援を求めた。皇帝は1226年のリミニの金印勅書で、騎士団の権利を確認してプロイセンの征服を許した。1227年の秋に、フリードリヒは十字軍への参加を誓約し、ヘルマンも第6回十字軍に付き従った。航海の途中で皇帝が病に罹ると、ヘルマンは教皇の破門を覚悟のうえで、十字軍の中断を進言した。破門を受けた皇帝が十字軍を再開すると従軍し、エルサレムでの戴冠式に出席した。1229年夏にキプロス進出の計画が頓挫すると、プロイセンの開拓を本格的に進めた。帰国後は破門の取り消しに奔走し、1230年にチェプラノの和議で破門が解かれた。教皇グレゴリウス9世と皇帝が和解のために設けた食事の席には、ヘルマンがただ一人の立会人として同席した。同じ年、プロイセン征服の責任者として、ヘルマン・バルクをラントマイスターに任じた。
1233年に騎士団はクルム要塞の特権を定め、翌1234年には教皇から、クルムの支配とプロイセンの征服およびその土地の所有を認められた。1237年には、ザウレの戦いで壊滅状態に陥ったリヴォニア帯剣騎士団を併合した。1238年の初めにヘルマンはドイツで病に罹り、治療のためイタリアのサレルノへ向かった。1239年3月20日に没し、バルレッタの騎士団の教会に葬られた。後世には、「13世紀のビスマルク」「中世最大のドイツ人政治家」とも評されている。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト4世 (1239年)
- イレーネー・ラスカリナ (1239年没)
- アンリ2世 (バル伯) (1239年没)
- ヴワディスワフ・オドニツ (1239年没)
- プルガス (1239年)
同じ地域に関係する人物
- ルッジェーロ3世 (プッリャ公) (1148年没)
- ベアトリス・ド・プロヴァンス (1267年没)
- グレゴリウス8世 (対立教皇) (1140年没)
- ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ (1271年没)
- カルロ・ピカーサ (1857年没)