HISTORICAL PERSON · 1140年没

グレゴリウス8世 (対立教皇)

フランス中西部リモージュ出身。パスカリス2世の教皇特使として交渉中にハインリヒ5世側へ寝返って破門され、1118年に皇帝に擁立されて対立教皇となった。のち追放されて捕らえられ、修道院に終身監禁された。

生涯
1140年没
死亡地
イタリア共和国(サレルノ県 / カーヴァ・デ・ティッレーニ)
出生地
—
出典
世界地図
イタリア共和国(サレルノ県)

伝記

グレゴリウス8世は、本名をマウリキウス・ブルディヌス(ポルトガル語でマウリシオ・ブルディーノ)といい、教皇ゲラシウス2世とカリストゥス2世に対立した対立教皇である。フランス中西部のリモージュか、その周辺のリムーザン地方の出身とされる。クリュニー修道院で学び、ベネディクト会の修道士になったともいうが、クリュニーとの結びつきには確かな文書の裏づけがない。ブルディヌスという呼び名は、後世の年代記作者が広めたもので、軽蔑のあだ名とみなされることが多い。のちにイベリア半島に渡り、トレドの大司教ベルナール・ド・セディラクの周囲にいたと考えられている。トレドの聖堂参事会で、おそらく助祭長を務めたともいう。

マウリキウスは、1098年とも1099年ともいわれる年に、コインブラの司教に任じられた。コインブラは1064年にキリスト教徒が最終的に奪い返した町で、まだ国境の地にあった。彼は教区の組織づくりに加わり、ブルゴーニュのエンリケとその妻テレサの政治圏にも近づいた。1104年ごろから1108年ごろにかけては、聖地へ巡礼し、ローマ、コンスタンティノープル、エルサレムなどを通ったと伝えられる。

聖ジェラルドの死を受けて、マウリキウスは1109年、ブラーガの大司教に任じられた。この叙任を1111年とする説もある。大司教として、ブラーガの首都大司教としての権威を強め、教会の規律を整え、スペイン全体の首位権をめぐってトレドやサンティアゴ・デ・コンポステーラと争った。

時の教皇パスカリス2世に気に入られ、1117年には、皇帝ハインリヒ5世と対立してイタリア中南部のベネヴェントに逃れていたパスカリスの使者として、ローマへ派遣され、叙任権をめぐってハインリヒ5世と交渉した。ところが交渉の最中に皇帝側に寝返ったため、パスカリスの怒りを買って破門された。1118年1月21日にパスカリス2世が亡くなると、3月8日、ハインリヒ5世は彼を教皇に立てた。これがグレゴリウス8世である。

しかし、教皇になったときすでに高齢で、周囲の支持を得られなかった。パスカリスの跡を継いだゲラシウス2世が1119年1月29日に死去し、跡を継いだカリストゥス2世は、ハインリヒ5世との和睦を探った。そのため、グレゴリウス8世は皇帝からも邪魔者とみなされ、スートリへ追放された。追放先で土地の住民の手によってカリストゥス2世に引き渡され、修道院に終身で閉じ込められた。在位は1118年から1121年までとされる。その死は1140年とされるが、1121年より後にカーヴァ・デ・ティッレーニの辺りで死んだともいわれ、確かなことはわかっていない。

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